2015年12月4日金曜日

言語感覚からみた母語と共通語

世界の共通語としての英語が定着し始めてからはある程度の時間が経過していると思われます。

英語の共通語としての地位はますます確固たるものとなっていくのではないかと思われます。


しかし、共通語としての英語が定着し始めてからの期間よりもはるかに長い期間をそれぞれの言語が独自の世界を築いて継承し続けてきたことは間違いのないことです。

その期間に比べたら世界の共通語としての英語の存在期間は取るに足らない期間と言うこともできると思います。

それでも、現在に生きている私たちにとっては母語としての日本語を持っていても日本語だけで生きていくことが不可能なほど日常的に英語の影響を受けています。


さらに、それぞれの母語で工夫され構築された論理やメソッドは英語に翻訳されることによって世界に広がっていくことになります。

共通語としての英語が広がれば広がるほど、それぞれの母語で構築された論理やメソッドの特徴的な独自の感覚が英語の感覚によって統一化されていくことになります。


そこでは母語話者同士の間では意識することなしに伝わっていく言語感覚であったとしても、共通語としての英語に翻訳されることによって消えてしまうものもあれば違った感覚として表現されてしまうものも出てくることになります。

共通語の存在メリットとしては、主旨や概要などをつかむことについては原語よりも楽になります。

しかし、反対に共通語に翻訳されることによって原語が持っている感覚やニュアンスはつかむことが難しくなってしまうことがあります。


共通語を母語として持っている者同士において交換される情報は、共通語を母語として持っていない者が加わっている場合に比べるとはるかに多いものとなっています。

高度な思考や難しい知的活動を行なう場合にはどんなに共通語を意識しようとしても必ず母語で行なわれていることが分かっています。

そこで出来上がった論理やメソッドは表現段階で共通語に翻訳されることによって母語が持っている感覚の欠如や置き換えが起こってしまうことを避けることは出来ません。

それは、本人が翻訳する場合でも別の翻訳者がいる場合でも母語に対して持っている言語感覚と共通語に対して持っている言語感覚が一人ずつ異なっている事によってさらに拍車をかけていることとなってると思われます。


このことは個人についてもあてはめることができます。

母語話者としての日本語同士で行なっている知的活動とそこに英語が加わる場合では全く異なった活動経過と結果を導くことはあらゆる場面で検証されています。

英語に触れる機会や日本語と英語との変換をする機会が多くなればなるほど、その人が持っている日本語の独特の感覚が薄れていきます。

反対に、その人が持っている英語の感覚に日本語が持っている感覚が反映されやすくなってくのです。


共通語を意識すればするほど、言語感覚としても母語との共通性が多くなっていくこととなっていくのです。

もちろんそれが分かるほどのものになるには多くの時間と経験を必要とし徐々に行われていきますので本人ですらよほど意識をしなければ気がつくことはないと思われます。

共通性が多くなっていくということは、共通語の方はより母語の感覚を取り込むようになり母語の方は共通語の感覚を取り込むようになっていくことになります。

つまりお互いの独特な特徴が薄められていく方向に向かっていくことになるのです。


それでも、母語は絶対的な個人の基礎言語ですので共通語についての使い方や理解も母語で行なっていることになります。

その母語は、主に母親から伝承されいく個人的な言語ですので、母親の持っている言語が共通語の影響が強くなっていくことによって世代を越えて伝承されていく母語に必ず影響が出ていくことになります。


助数詞と言う品詞があります。

名詞を数える時に数詞としての「一、二、三、四・・・」にその名詞を数えるために加えられる独特の数え方になります。

一匹、一羽、一把、一本、一回、一頭、一件などに使われてる匹、羽、把、本、回、頭、件などのことです。


正確に数えた資料を知りませんが、日本語には約500くらいの助数詞が存在すると言われています。

助数詞で名詞を区別する言語は日本語や中国語などを中心に世界中に散らばっています。


英語は助数詞を持ちません。

その代り英語の持っている名詞の区分には、可算名詞・不可算名詞の感覚が強く反映されています。

このことが英語としての言語の特徴や感覚に大きく影響をしていることは間違いのないことでしょう。


フランス語やドイツ語などの他の言語においては名詞を区別するのに文法上の性を設定しているものもあります。

男性名詞・女性名詞が中心ですが言語によっては中性名詞やさらに細かく区別しているものもあります。

この文法上の性は生物学上の性と一致していることもありますが、一致していないことも少なくありません。

また太陽や月のように同じ対象にたいしても言語によって男性女性の文法上の性が異なるものもたくさんあります。


実用日本語において助数詞の使用が激変しています。

個、つ、本、枚などの汎用性の高い助数詞の使用が増えており独特な特徴的な助数詞がこれに置き換わって使われていることが多くなっています。

同じ助数詞を持つ名詞同士には日本語の独特の感覚としての共通性を見ることができます。

これも言語としての感覚を形成しているものの一つだと思われます。

感覚が共通語化している一例と言っていいのではないでしょうか。


ドイツ語を母語として構築された論理やメソッドが英語に翻訳されて世界に広がっていきます。

それが日本語に翻訳されてベストセラーとなったとします。

私たちが日本語として読んでいるものから受け取る日本語の感覚は、ドイツ語→英語→日本語と変換されるうちに原語で構築された論理やメソッドとはかなり原語感覚として異なったとものとなっていることの方が多いのです。

そのベストセラーとなった日本語の役された日本語の感覚として、自分の母語である日本語と照らし合わせて理解していることになるのです。

しかも表記されている日本語の感覚は訳者が持っている感覚ですので、日本語の母語話者であるのかどうかは分からないことになります。


他の言語との比較のためにつけられた言語の名称が日本語であり、これが日本語だという明確な言語があるわけではありません。

一人ひとりが母語として持っている日本語も決して同じ日本語ではありません。

それでも他の言語と比べたら、言語の持っている基本的な感覚としては共通しているものがはるかに多いものとなっています。


英語のように言語化されているものをすべてとしてそれのみを対象とした知的活動を行なおうとする感覚とはかなり異なったものとなっています。

日本語が持っている共通的な感覚では、言語化されていない情報に対しての価値は英語に比べてはるかに高いものとなっています。

そのために「一を聞いて十を知る」「行間を読む」「以心伝心」などの基本感覚が前提として置かれているのです。

表現されている言語以外の情報をも取り込まなければならない日本語においては、言語の感覚は英語に比べてはるかに重要な要素となっているものだと思われます。


日本語こそ言語感覚を大切にしなければならない言語だと思われます。

そのためには日本語だけを対象としていては難しいことになります。

他の言語の持っている感覚との違いを見つけることで可能になることではないでしょうか。

そのためには、日本語をより理解することと共に共通語としての英語の感覚を同じような視点で見る目が必要になると思われます。


独特な言語感覚を持った母語による知的活動は、独特な思考過程を生み出すことが可能です。

日本人ノーベル賞受賞者の増加と何かしらの関係があるのではないでしょうか。

大切にしたいですね日本語ならではの言語感覚。


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