2015年12月3日木曜日

「あるく」と「はしる」

人が足を使って移動する様子を表す基本的な言葉(動詞)は、日本語では「あるく」と「はしる」の二つがあります。

この二つの言葉を区別する知覚的な基準は子供から大人や老人まで同じものとなっているようです。


大人であれば言語による表現で「あるく」と「はしる」の違い(区別)を説明できるかもしれませんが、言葉を覚えたての幼児では言語による説明はできません。

以下のような実験が行われました。

ランニングマシンのスピードを徐々に上げていき、同じスピードの中で歩行面の傾斜角度を三段階ずつ変化させていきます。

その上を歩く人を見ながらどの時点で「はしる」という動作に見えるのかを検証した実験です。


言葉で「あるく」と「はしる」の違いを説明できない幼児も大人も、ほとんど全ての人が同じ瞬間から「はしる」と感じていることがわかりました。

断続的なスピードの変化は無理ですので、ある程度の決まったスピードを設定しての実験だったようですが、「はしる」と感じたスピードに対して「あるく」と感じた者は年齢に関係なくいなかったという結果になりました。

言葉として「あるく」と「はしる」を持っている者は、その違いを言葉で説明できなくとも同じ感覚を持って二つの動きを明確に区別していることがわかったことになります。


では、英語ではどうなのでしょうか?

人が足を使って移動する様子を表す基本的な言葉は日本語よりも多く、walk,jog,run,sprintの四つの基本的な言葉で区別されています。

この四つの動作には英語母語話者にとっては明確な区別があり、日本語における「あるく」「はしる」の区別と同様にはっきりとした違いを感覚として持っています。

さらに、walkとjogの間には日本語における「あるく」と「はしる」の区別と全く同じ違いを感じていることが分かりました。


つまり、英語の感覚においては日本語の「はしる」について日常的にjog,run,sprintに区別する感覚があることになります。

日本語ではこれらの英語に対応する基本的な言葉がありません。

社会文化的に必要としていないのです。

jogやsprinntに対して「ゆっくりはしる」「全力ではしる」といった感覚の違いを表現することは出来たとしても、そこにはあくまでも「はしる」が軸となった修飾語で表現するほかはないのです。

「はしる」の中での表現を出ることはないことになります。


これは修飾する言葉を抜きにした基本的な区別が明確な独立した言葉としてどんな言葉を持っているのかによって知ることができます。

同じことに対してスペイン語は三種類の動詞を持っていますし、オランダ語にいたっては七種類の動詞によって使い分けられています。


言語は精神文化がそのまま形になったものと言うことができます。

日本語の文化では「あるく」と「はしる」の二種類の言葉で区別されているものが、英語の文化では日本語の「はしる」に当たるものがさらに三種類に区別されて合計四種類の言葉が使われています。

このようなことがあらゆる分野において存在しているのです。


言語の感覚については精神文化の表れとして今まで何度も触れてきていますが、具体例を示すことができていませんでした。

感覚ですから説明することがとても難しく思えていたからです。


今回は大きなヒントをもらいました。

文化によって一般的な感覚の中でも細分化されている分野が異なっていることになります。

また、細分化されている分野の違いとその細分化の度合いが文化と言うものの正体なのではないのでしょうか。


専門化していけばどんどん細分化される言葉が増えていきます。

しかし、それはその分野を専門とする場合や興味を持っている場合に限って必要なこととなるでしょう。

一般的な日常的に使用される言葉、わかり易くいってしまえば幼児が覚える最初の言葉群と言ってもいいのではないでしょうか。

その言葉群の中でどのような分野でどのような言葉による区分がなされているのかが言語が持っている感覚ではないでしょうか。


言語によって色の区分として持っている基本的な言葉の数が異なっていることもその表れではないでしょうか。

本来の色はグラデーション的に徐々に変化しているものでありその境目については極めて曖昧になっているものです。

ところが、同じ母語を持っている者同士であれば、ある色の典型的な色はほとんど同じものになりますし、色の呼び方として微妙な範囲のものであってもほとんど同じ色として判断していることが分かります。


日本語は形容したり修飾したりする言葉はとても豊富にありますが、基本的な区分としての言葉は決して多い方ではありません。

基本的な言葉の持っている区分がそれぞれの言語の独特な感覚を作っているのではないでしょうか。


同じ日本語を母語としていても一人ひとりの言語感覚が微妙に異なるのは、それぞれの分野において持っている言葉の区分の粗密によるものなのかもしれないですね。

人によっては「こだわり具合」と言えるものなのかもしれませんね。

言語感覚の正体が少し見えてきたのではないでしょうか。