2015年12月14日月曜日

赤面症でもできた、伝えるための日本語

私は、人前で話すことが大の苦手でした。

過去形で表現しましたが、苦手と言う意識としては今でも大して違いがないと思っています。

その一番の原因は赤面症です。


もの心が付いたころと言う表現は人によって捉えている年代が異なっている言葉となっていると思いますが、一般的には「いつ、だれと、どこで」という要件が一緒に記憶することができるようになることのことだと言われています。

この三つの要件が揃った記憶のことをエピソード記憶と言ってそれ以前の断片的な記憶とは区別してとらえていることが多くなっています。
(参照:言語のゴールデンエイジ

幼児期の記憶の仕方からエピソード記憶がしっかりとできるように変化していく頃が、もの心が付くころと言うことだと思われます。

具体的には9~10歳頃になるとほとんどの記憶がエピソード記憶として残るようになると言われています。


このもの心が付くころには私はすでに赤面症を自覚していました。

しかも、赤面することが周りの人たちには起こらないことなので、人と違っていてとても恥ずかしいことだと感じるようになったことです。

その原因については自覚がありませんし、知りたくもないことだったと思います。


授業中に手を挙げる姿勢はあるのですが、そこで指名をされて答える段になるととても不安になっています。

答えが合っていて「よくできました」と言われればそれでホッとするのですが、答えが間違っていたり突っ込まれたりするともういけません。

アタフタすると同時に間違えた自分がとても恥ずかしい惨めなものとなってしまい、何も言えなくなってしまい赤面してしまうのです。


小学校の高学年の5年生6年生の2年間はクラス替えもなく転入生転校生はあっても基本的には同じメンバーで日々活動していました。

そのころには、周りの人も先生も私の赤面症を分かっており、症状が出たとしても露骨に指摘されることはほとんどなかったと思います。

そのおかげで赤面症になる場面もそれほど多くなかったと記憶しています。

ある程度安心できる環境にあったということだと思います。


自分でも記憶しているのが知らない人や年上の人などと話すときが一番危なかったことです。

自分で確実に答えられることを短い言葉で返事をするとき以外は、話しているうちに赤面してくることが自分でもわかるのです。

いったん赤面の変化を感じ始めるとその変化を相手が見ていて変な奴(普通じゃない奴)と感じていると思い込んでいますので、変化の少ないうちに話すのを終わらせようとするのです。

それでも赤面は行き着くとこまでは勝手に行ってしまうので途中で止めようがありません。

逃げ場ないとところに追い込まれたような感覚でパニック感すらあります。


赤面症が治ったわけではありません。

今でも時々出ているのです。

もちろん恥ずかしさはありますが、それによって焦ってしまったりパニックに陥ったりすることはなくなりました。


そのきっかけは突然訪れました。

なんと400人を前にプレゼンをすることになったのです。


今でも覚えていますが、自社の物流の現状と問題点を中心にした内容です。

聞いている人のほとんどは社長役員を筆頭に物流の素人です。

彼らに実感として分かってもらうことが最大の目的になっていました。

外資系のメーカーに物流の専門家として入社して、顔の分かる人は30人もいるかどうかの状態でしたので事前の対応や準備もやりようがありません。

開き直ってやるしかない状況でした。


紹介を受け壇上に立ち挨拶をしているだけで赤面してきたのが分かります。

ところが、資料がスクリーンに映し出されるとそちらの方が明るくなり、比較として説明者が少し薄く暗くなります。

これは後で気がついたことですが、やっている時はみんなに赤面が見られていると感じていますのでそんな余裕はありません。


どんなことを話したのかの記憶もほとんどなく席に戻ると、日本語のよく分かる社長が手を出して握手を求めてきたのです。

" Excellent! Good presentation."

まだ赤面の残る顔で握手をしたことを覚えています。


このことによって初めて知ったことがありました。

伝えたい人に本当に伝えたいと思って話をしていれば方言であろうと赤面症であろうと滑舌が悪くともたいした問題にならないことを知ったのです。

もちろん聞き取りにくかったり理解しにくかったりしない程度の問題ではありませが、それよりも相手に伝わる言葉で話すことの方がはるかに大切であることを知ったのです。


聞いている人の物流に対しての基礎情報のレベルが全く分からない状況でした。

どうしても使う必要のある専門用語はすべて使った後に素人でもわかり易い表現に置き換えて話しをしていました。

話し手のキャラクターや特殊性に注意が行くのは、聞いている話そのものに理解するための意識が行っていないときであることが分かりました。

この時に聞いていた400人程度の人のうち私の赤面状態に気がついていた人は聞いた限りではほとんどいなかったのです。

赤ら顔だなと感じた人は随分いたようだったことは後から聞きましたが、そのこと自体が気になった人はいなかったということです。


実際に置き換えていった言葉は小学校の中学年レベルの誰でもが同じ理解ができるための要素を持った言葉です。

場面によっては「バカにするな」とも言われかねない程度の本当に基本的な言葉です。

もし、私が自分が物流の専門家であることを見せつけるためでしたらこんな置き換えは行なわなかったと思います。

見えていない物流の実態やそこに見えている問題を何とかして分かって欲しいと思っていたからやっただけです。


誰でもが理解できる日本語というものが存在するのでしょうか?

それはないと思っています。

そんな言葉を使っても伝え方によっては理解してもらえなくなるからです。


本気で伝えたかったら工夫をするはずです。

しかし、どんなに努力をして工夫してもそこで伝わるのは日本語の言葉として伝わるのが限界です。

その言葉を自分のものとして理解するのは受取った人の一人ずつの活動になるのです。

この活動を統一的に行なわせることは不可能でしょう。


一人ひとりが持っている日本語の言葉についての意味が微妙に異なっているからです。

それでも伝える側の意図を分かってもらうためには、まずは言葉としての日本語をきちんと受け取ってもらわなければはじまりません。

その言葉をどのような意味に解釈するのかは個人の知的活動に任せるしかないのです。


そのためには、伝える言葉に工夫をすることしかできないのです。

より多くの人が共通的に同じような意味を持っている言葉を選択する必要があるのです。


一対一の会話や利き手の反応がすぐ確認できるような場合には伝えた言葉をどのように解釈したのか確認することも可能ですが、何百人の前で壇上で話をしたのではよほど慣れていないと反応を確認する余裕はないと思われます。

伝えることができるのは最大限で言葉だけです。

その言葉に対する解釈は受けた個人に任せるしかないのです。


少なくとも言葉として間違って受け取られてはそれ以前の問題です。

同音異義語や言葉の区切りで違う言葉として伝わってしまう可能性があるものについては、話し手側の責任で解消しておく必要があります。

読んで理解するための日本語としては漢字がとても役に立います。

文字自体が意味を持っているからです。


ところが漢字を思い浮かべて話しをしても漢字の言葉では伝わっていないことが分かるのに経験が必要になります。

どんな伝わり方をしてるのかを知ることが伝えるための日本語を知る手がかりです。

文字を読んで理解していることと話を聞いて理解していることが大きく違うことを理解しておくと伝えるための日本語がわかり易くなりますね。