もちろんその言葉が数を表すものであることを理解できるような段階ではありません。
「1(イチ)」という言葉は抽象的な言葉であり、具体的に手にとってコレが「イチ」ですと提示できるものではありません。
「1」という字(数字)を書いて「イチ」と読むものであることを何度も教えれば、文字としての「1」の音としての「イチ」が結びついて記憶されていきます。
「1」を見せた時に「イチ」と言うようになったり、「イチ」と言った時に「1」を示せるようになったりすることができるようになります。
ところが、これは文字記号としての「1」と音としての「イチ」が結びついているだけであって、意味を理解しているわけではありません。
ここまでのことは必要な時間の差はあったとしても、言葉を持たない人間以外の動物でも可能なことです。
猿でも犬でも一定の時間をかけて教え込めば「イチ」と言う声を聴いて「1」と書かれたものを選ぶことが可能となります。
動物は人のような言葉を使いこなしているわけではありませんが、ある程度の記憶ができればこの程度のことは出来るようになります。
言葉が寄与するのはこれから先のことになります。
動物は「1」=「イチ」であることが記憶されてからの進展がありません。
「1」=「イチ」が使われる場面や出会う経験を重ねてもその記憶自体に変化も広がりもありません。
単にその記憶がより強固なものとなるだけののことになります。
ところが人間の子どもたちは、「1」=「イチ」が使われる場面や出会う経験を重ねることによっていろいろなカテゴリーとしての「イチ」を認識していきます。
多くの数字が並ぶ中での「1」を認識することもありますし、何かが一つあることを示す言葉としての「イチ」を認識していくこともあります。
言葉としての「1(イチ)」は、単なる文字記号と音の記憶だけではなく、それが使われる場面を数多く経験することによっていろいろなカテゴリーにおいて存在することを認識していくことになります。
知識も経験ですので言葉としての「1(イチ)」を周りが使っていることを見聞きすることも経験になります。
「1(イチ)」という言葉についてのいろいろなカテゴリーがネットワークのように広がっていくことになります。
「1(イチ)」を数字のカテゴリーとして認識するためには「数字」という言葉を知っていなければできないことです。
更に「1(イチ)」と「数字」が結び付くためには、「1(イチ)」が属するカテゴリーにつけられた名称が「数字」であることを認識しなければできないことです。
これらのことがすべて言葉によって行なわれていることになります。
動物にはこの言葉がありませんので、新たに「2(ニ)」を教え込もうとすると「1(イチ)」と同じ程度の時間と過程を経ないとできません。
更には「1」と「2」との関係を認識することもできません。
人間の子どもは「2(ニ)」については「1(イチ)」を認識できるようになるよりもはるかに早くできるようになります。
「3(サン)」についてはさらに早くできるようになります。
その先はもっとずっと早く認識できるようになりますし、初めて出会う874という言葉を即座に数字であることが認識できるようになるのです。
やがて一つの持っている言葉にも様々なカテゴリーが形成されていきます。
「イチ」という言葉が数字カテゴリーの「1」でもあり「市」であり「位置」であり「ひとつ」であり、使われ方によっては小さいことであったり名前であったり様々なカテゴリーに属していることを経験によって認識していきます。
カテゴリーに名前がついていないために明確な認識ができていないこともありますが、どのような環境やどのような言葉と同じような種類に属するのかをネットワークとして広げていくことになります。
この言葉のネットワークによって抽象的な言葉や初めて出会った言葉を推測できるようになっていくのです。
一つひとつの言葉が持っているネットワークは一人ひとり異なったものとなっています。
しかし、同じ言語を母語として持っている者同士の間では共通性も多くなっていることになります。
言葉による理解はこの共通性に頼っていることになります。
人間であっても生まれた時にはまったくこのネットワークはおろか言葉すら持ってはいません。
一般的には、幼児期に母親の持っている言葉によって母語が習得されていきますので、最初の言葉のネットワークは母親の持っているものの一部を継承されたものと思われます。
その後の言語経験の積み重ねによって一人ひとりの言葉のネットワークが形成されていくことになります。
個人としての言葉のカテゴリーの形成のされ方もありますし、基本的な知識や社会のルールとして教え込まれるカテゴリー分類もあることになります。
言葉のネットワークが小さい時には、持っている言葉自体も少ないですしカテゴリー自体も少ないことになります。
結果として推測する能力も抽象的なことを理解できる能力も低いことになります。
同じ言葉であってもその使われ方によっては、自分のネットワークになかったカテゴリーに属したものかもしれません。
相手の持っている言葉であってもそんな経験によって新しいネットワークが広がっていくことになります。
初めて出会った言葉に対してはどんなことを意味するのかを、使われている環境や前後の馴染みのある言葉の使われ方などのネットワークから推測していくことができるようになるのです。
初めて出会う874という言葉に対して具体的な874という経験はなくとも正確な数字として理解できて扱えるのは、これらのネットワークによって行なわれていることになります。
更に私たちは経験によって874がもしかすると「ハナシ」と呼んで「話し」として使われるかもしれないことをネットワークの中に持っているのです。
目の前に自分が「犬」という言葉で表現する対象があったとします。
事実としてある対象はたった一つですが、人によっては「動物」「ダックスフント」「哺乳類」「四足」「ペット」「ジミー」などと持っているカテゴリーによって認識する言葉が違っているのです。
これが当たり前の状態と言えるのではないでしょうか。
具体的に目に見え手で触れることができるものであってもこうなるのですから、抽象度が高まったものについてはもっとバラエティ豊富なネットワークから導き出されるのではないでしょうか。
この言葉のネットワークに広がりが作れなくなってくると、今までの経験による固定概念によって言葉を理解することしかできなくなると思われます。
言葉のネットワークは言葉同士の関係性によって成り立っているものだと思われます。
動物も記憶はすることができますが、言葉にはなっていませんので関係性を理解することができません。
そのために、学習することが難しくなっているのだと思われます。
学習することは、新しい言葉を取込むことも大事ですが持っている言葉のネットワークを広げていくことの方が大切ではないでしょうか。
言語が異なることによって、その言語が持っている精神文化によって分類されている基本カテゴリーが異なってることが多くあるようです。
このあたりも言語の感覚の基本的な違いとなって現れているのではないでしょうか。
日本語にとってはあたり前のカテゴリーである言葉も他の言語においてはそのカテゴリーには属さないことも出てくることになります。
このあたりの感覚が分かっていないと翻訳も難しいですね。
同じ言葉が持っているネットワークが一人ひとり異なっていることは意識しておきたいことですね。