2015年11月14日土曜日

「わかる」という実感

「わかった」という実感はどこからきているのでしょうか。

難しい哲学的なことはこの際あっちの方に置いておいて、日本語独特の感覚として捉えたらどのようになるのかを少し考えてみたいと思います。


「わかる」と言う感覚は極めて個人的なものではないでしょうか。

学校で何かを教わり先生から「わかりましたか?」ときかれた時に「わかりました」と答えていた自分は、「わかっていたのかいなかったのか」自体がよく分かっていなかったと思います。

決して嘘をついていたわけではないと思いますが、先生の思っている「わかった」と自分の思っている「わかった」が違っていたのではないでしょうか。


地球は自転をしながら太陽の周りを公転していることを知らない人はいないでしょう。

しかし、このことを実感としてわかっている人はどれだけいるでしょうか。

五感のすべてを動員しても実感として地球が動いていることを感じることは難しいのではないでしょうか。


地球が動いていることは客観的な真実であるし論理的には証明がされていることです。

しかし、私たちの実感としては地球を中心にして太陽が動いているように感じているのではないでしょうか。

論理的に証明されたことは論理的に理解することは可能ですが、そのことについて実感として「わかった」と思えるかどうかは別のことに様に思われます。


五感を含めてすべての感覚を総動員しても地球が動いているということを実感することはかなり難しいこととなっています。

それよりも、自分の感覚では自分を中心として太陽が動き月が動き星が動いていると感じているのではないでしょうか。

実感するということは五感の何かの感覚によって自分の経験として感じることが必要なのではないでしょうか。


知識においても同じことが言えるのではないでしょうか。

知識としての論理を理解することは頭の中でできることだと思います。

でも、その段階ではそういう論理があるということを理解していることだと思います。


抽象的な論理であればあるほど「わかった」となるのが難しいのは、実感することが難しいからではないでしょうか。

「1+1=2」という論理があります。

理解しなければいけないことがたくさんあります。

「1」「2」「+」「=」の記号としての意味を理解しなければなりません。


全てが抽象的なものですので実感することは大変です。

まずは数字を理解しなければなりません。

「1」を実感として「わかる」ことは大変難しいことだと思います。


「1」だけを理解しようとすると絶対的なものとして理解することになり理解するための論理が必要になってしまいます。

しかし、数字としての「1」を「234567」などとの対比によって理解しようとすれば相対としての捉え方ができるようになります。


絶対的な論理としての地球は止まっている太陽の周りを動いていることよりも、自分を中心に見た相対として太陽が動いているとした方が実感として「わかる」のです。

したがって「2」に対しての「1」の理解はほとんどの人が同じように「わかって」いますが、「1」を実感として「わかって」いる内容は一人ずつ違っている可能性が高くなっています。


「1+1=2」ついてはこうでなければいけないこととして理解することになります。

実感としては「1+1=3」としたときに☓をつけられたり怒られたりすることによってやってはいけないこととして実感するからではないでしょうか。

「1+1=2」としたときに初めて〇をもらったり褒められたりすることによって、こうすればいいんだという実感から来ている「わかった」ことであり「1+1=2」の論理が「わかって」いるわけではないと思われます。

やがて、いろいろな場面で具体的な「1」や「2」に触れることによって一人ひとり異なった実感としての「1」や「2」が出来上がっていくのだと思われます。


したがって「わかる」という実感は一人ひとり異なったものであることが分かります。

客観的な絶対的な事実として事象に対しても理解することはできても実感として「わかる」ことは決して簡単なことではないと思われます。

つまり、理解は客観性と絶対性で可能となるものですが「わかる」については極めて個人的な感覚となっていることになります。


日本語における基本的な感覚は「わかる」です。

したがって、相手に対して理解してもらうことではなく「わかって」もらうことを目指しているのです。

理解していることは、どんなに正しいことであったとしても自分の感覚としては必ずしも「わかった」とはならないことがあるのです。


法律や規則についてはほとんどの人が理解しています。

法律や規則を破って罰を受けている人たちには理解していない人も含まれていますが、ほとんどの場合は理解をしている人たちです。

彼らは、客観的な法律や規則として理解はしていても自分の実感として「わかった」ものとなっていないのです。


日本語的な感覚を持たない言語を母語とする感覚においては、理解=「わかった」あるいは「わかった」という感覚がない場合が多いと思われます。

客観的な事実として理解することと自分の実感として「わかる」ことは同じことではないのです。


「理解できた?」と聞かれると当たり前に理解できると思われている一般常識的なことを確認されてるようで、一種バカにされているような感じが伴っていないでしょうか。

「わかった?」と聞かれると、他の人はともかくあなたは自分として「わかった」かどうかを問われている感覚が伴っていないでしょうか。


たとえそれが他の人と違った中身であっても「わかった」と感じた時の感覚には興奮すら伴なうことがないでしょうか。

「わかる」は感情だったんですね。

感情である以上は個人のものですので一人ひとり感じ方が異なって当たり前ですね。


同じ事象に対して複数の人が「わかった」と言ってもその分かり方は一人ひとり異なっているよいうことになるのでしょうね。

理解は共有することができても「わかる」は共有することが難しいということでもあるのでしょう。

「わかった」という感情を持ったことは共有できたとしても、その中身は共有しているわけではないのですね。


「わかる」が感情である以上、突然湧き上がることもあることになります。

もちろん何らかのきっかけが必要であることになりますが、理解するという過程を通り越して突然のひらめきとして「わかった」と感じることがあることになります。

人に対して何かを発信していることは出版にしても会話にしても理解してもらうことを求めて行なっていることではないでしょうか。

したがって、それを受けた人は発信した人が理解してほしいと思っている以外のことで自分自身で「わかる」こともありますし、触発されて「わかる」こともあるのだと思います。


この「わかる」とい感覚を大事にしたいですですね。


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