2015年11月13日金曜日

「ひらがな」の伝え方

このブログの独特の言い方のひとつに「現代やまとことば」があります。

現代日本語でも使用されている「ひらがなことば」のことを指しているものです。

基本的には「やまとことば」と何ら変わるものではありませんが、「やまとことば」と言うと難しい古語的なイメージを持たれてしまいますので、現在使われている新しい「ひらがなことば」も含めて「現代やまとことば」と呼んでいます。


言語については、その成り立ちや習得の過程を見てみればすぐにわかるように音声としての言語が文字としての言語の前にあります。

言語としての感覚は音声によって磨かれていき習得されていくものとなっており、文字による言語はそれを補強するものとなっています。

記憶の中枢に対しても視覚よりも聴覚の感覚の方が近くにありより影響を与えていると考えられています。

何かを覚えようとした時に見て覚えるよりは声や音声で覚えたほうが記憶に残るのはそのためだとも言われています。


したがって言語としての理解においても、基本的な理解は音声において行なわれており文字による理解は音声による理解を補強するものであるということができます。

ところが、日本語には音声を伴わなくとも文字自体が意味を持って視覚だけでも理解できてしまう表意文字としての漢字を多用することが多くあります。

現存する文字のなかで文字自体が意味を持っている表意文字は漢字だけだと言われています。

中国語は漢字だけで表記されていますので完全表意文字の世界となっていますが、日本語の場合は標準の表記が漢字とひらがなの混ざり合った和漢混淆文となっています。


そのために、日本語は助詞や語尾の変化などのひらがなに頼る要素が多くなっており漢字だけでは内容を理解するのが難しい構成になっています。

ほとんどの漢字は名詞や動詞の語幹として使われているために一つひとつの漢字の言葉としての意味は文字から理解できても、その言葉同士の関係や意味のつながりがすべてひらがなによって理解できるものとなっているのです。

さらに、日常生活においても人に何かを伝える場面においては文字よりも話し言葉による伝達方法の方がはるかに頻度が高くなっているのです。
(参照:漢字は日本語の感覚ではない


つまりは、日常的な言語の使い方は話し言葉によることがほとんどであるためにそのことが当たり前の活動となっています。

あまりにも当たり前の活動となっているためによほどの場面でない限りは話すことに対して意識をすることがありません。

日常会話においては話していること自体を意識してませんので、自分の持ってる言葉によって勝手に会話がつながっていっています。


文字を書く場面においてはどんな場面においても書くことを意識しています。

文字として見てもらうことを意識していますので、話しているときのように自然に自動的に出てくるわけではありません。

ましてや、話すことによってフォローができない手紙や相手が目の前にいない場合には、かなり意識をして理解してもらう書き方をしていることになります。

その分その都度伝えるための工夫が自然に行なわれていることになります。


話し言葉としての日本語はすべてひらがなの連続音として伝わっています。

そのことを理解しておかないと、伝えたいことに対してどの様な受け止め方をされているのかを想像することができなくなります。

ひらがなの連続音とはどんな感覚として伝わっているのでしょうか?


「基本的な問題についての手段が講じられていないと効果を期待できません」ということを伝えたいときに、頭で考えたそのままを言葉にして発信すると相手が受け採っている音は以下のようになります。

「きほんてきなもんだいについてのしゅだんがこうじられていないとこうかをきたいできません」

本来ならば音として伝わった内容を補助するための情報としての文字が、この状態ではかえって分かりにくくしていることにもなります。


もともと抑揚の少ないアクセントの弱い日本語の発音の仕方は、すべてをひらがなとして受け取るときには一段と分かりにくいものであることが理解できるのではないでしょうか。

その時に、私たちは自然と抑揚やアクセントや休止を入れて理解を助けようとしています。


ところが、これらの行為に対しての標準的なパターンがありません。

伝える言葉や内容やあるいは伝える人や方言によっても抑揚やアクセントや休止の使い方が異なるのです。

例文に「こうか」という言葉があります。

「こうか」と言う音に対しての同音異義語がたくさんあることは分かりますが、そこで検討することが可能になるのはひらがなの連続音の中から「こうか」と言う音の塊を把握できた場合に限ります。


「こうか」に続いて「ん」がある場合には「こうかん」として全く違う言葉となりますし、「こう」だけでも違う言葉を検討しなければなりません。

ひらがなの連続音は言葉としての括りとしてどこまでの音を考えればいいのかが分かりにくいのです。

このことを理解したうえで発信している場合と思い浮かんだ言葉を何も考えずにそのまま発信している場合では、相手の理解の容易さにおいて差が出ることになると思われます。


名詞や動詞や形容詞についてはそれが一つの言葉であることが分かるように伝える必要がありますし、助詞や語尾変化のひらがなについてはそれぞれの言葉の関係を理解するのに大切な要素となります。

何処を強調し抑揚をつけてアクセントをつけるのかはその都度の伝えたい内容によって変わってくるものだと思います。

幼児や学生たちの助詞がやたらと強調されるような伝え方は、言葉自体を分かりにくくしていることになります。


理解してもらいやすくする一つの方法として、はっきりと句読点を意識して休止を入れることが挙げられます。

読点の「。」についてはみんなが共通的につける位置が決まっていると思いますので同じ感覚で受け取ることができます。

句点の「、」の使い方は人によってさまざまであり、文章として書かれたものにおいては多すぎればうるさくて読み難いですし少なすぎれば意味をつかみにくくなります。


しかし、話し言葉においては文節単位に休止を入れることの方が理解を助けることになります。

例文で見てみると以下のようになります。

「きほんてきな  もんだいについての  しゅだんが  こうじられていないと  こうかを  きたいできません」


この空間のところすべてに句点を打ってしまうと見た目にはうるさいものになりますが、話し言葉としてはこのくらいで丁度いいものとなります。

人が一息で普通に発することができる音は12音前後だと言われています。

これを意味とアクセントを考えて定型化したものが七五調として日本語の音の調子の基本となっているものです。


「現代やまとことば」の利用としてできるだけひらがな言葉に置き換えて伝えることは技術的にとても理解を助けることになりますが、音としてのひらがなの連続音をいかにわかり易く言葉として捉えることができるように伝えるかは、相手の理解を得るためのとても大切な要素となります。

話し言葉はひらがなで伝わっていることを理解できるといろいろなことが見えてきますね。

伝わって理解してもらうために発信していることをしっかり確認しておきたいですね。