2015年10月9日金曜日

漢語と「古代やまとことば」

ここでは「やまとことば」を二つの段階で使い分けをしています。

文字を持たなかった話し言葉だけの時代の原始日本語ともいえるものを「古代やまとことば」と呼んでいます。

「古代やまとことば」を表記する文字である「仮名」が定着し始めて、元の漢語を意識する必要のなくなった段階を単に「やまとことば」として読んでいます。


中国(唐)との交流が盛んであったころは、中国との関係において日本(倭国)の存在を示さなければならなかったために漢語による表現は最高の外交技術でもありました。

そのためにエリートたちは漢語に通じて中国と近い立場を勝ち取ることが必要でした。

菅原道真の提案によって遣唐使が廃止されたのが894年であり、最初の仮名文学と言われる『竹取物語』が見られるのが900年の初めと言われています。

このころが中国との関係を重視するための漢語の習得よりも日本独自の「仮名」の発明に力が注がれた時期ではないでしょうか。


当時の中国文明は世界の最先端を行っていたものです。

ヨーロッパ文明の先駆けともなる旧約聖書についても伝わっていたことが分かっていますし、サンスクリット語による仏教も伝わっていました。

それらのことを独自の言語(漢語)で解釈し記録する技術も十分に備わっていた文明だっと思われます。


その文明が入ってきたころの日本(倭国)は、文字を持たない「古代やまとことば」の時代です。

中国から見たらまさしく「東夷」と思われていた文化がない地域と思われていた時代です。

なぜ、漢語が日本語にならなかったのでしょうか?


文化の侵略は中心より放射状に広がっていき辺境に行くほど古い文化が残ることが分かっています。

また、都市の発達と同じようによほどの疎外環境がない限りは、まずは中心の南側へ広がっていき次いで東、北、西へとへ広がりながら大きくなっていくことが分かっています。

圧倒的な文明の差があったにもかかわらず、漢語が日本語になっていないのはなぜなのでしょうか?

辺境の地にもその片鱗が見えないのです。


大きく二つの理由が考えられるのではないと思っています。

一つ目はそれぞれの持っている「ことば」の音の違いです。

かたや「古代やまとことば」は音しかありません、一方の漢語は文字と音の両方を持っています。

音しか持たない「古代やまとことば」の民族は漢語を音でしか理解することができませんので、自分たちの持っている音で意味を確認してからその意味を表す記号としての文字を認識することになります。


その最初の段階の音が自分たちの持っている音とあまりにも違っていたらどうなるでしょうか。

文字という感覚がありませんので、文字自体がどんなに意味を持っていたとしてもそれを理解することは出来ません。

自然発声の中でできたと思われる数少ない音で表現される「古代やまとことば」の音しか意味のある音として判断できない耳にとっては、漢語の音の違いを感じ取ることすら難しかったのではないでしょうか。

理解しようとしても「古代やまとことば」の音を聞き分けている感覚では漢語の複雑な音を聞き分けすることは出来ないと思われます。


もう一つは、表記の文字がないとはいっても「古代やまとことば」はそれなりにたくさんの言葉を持っていたのではないかということです。

文明の発展度合いが違いますので、言語自体が持っている言葉としては漢語の方が圧倒的に多かったと思われます。

それでも、ある種の分野における言葉の数が漢語を上回っていたことが考えられます。

おそらくその分野は日常的に使用される分野ではなかったでしょうか。

とくに古代の自然信仰にかかわる言葉としては、「古代やまとことば」にもたくさんあったのではないでしょうか。


文明の度合いが高くなるということは、対象とする内容がより細分化され専門化されていくことになります。

よりたくさんの言葉はこうして生まれていくのではないでしょうか。


例えば、英語でskyを表すのに「古代やまとことば」では「あめ」「あま」「そら」「かみ」「たか」・・・などという言葉を使っていたと思われます。

しかし、書くことができません。

そこで漢語に慣れた帰化人が「おれたちは『天』と書いているよ」と言ったとします。

最先端の国のことばでは『天』と書くことを知ります。


とりあえず、「あめ」「あま」「そら」などを「天」と書くことにします。

意味はかなりの部分で共通しているので代用できる場面は多いと思われます。

しかし、「天」ではそれぞれの感覚やニュアンスに応じて書き分けることも読み分けることもできません。


文字を知らないうちは考えたこともない事が起こります。

自分たちの話している通りに書けないものであろうかと思うのではないでしょうか。

「仮名」が見つかるまでの間はこれの繰り返しではなかったのではないでしょうか。


やがて、漢語の文字の形を省略して「古代やまとことば」を表わすための発音記号を作ることになったと思われます。

「菩薩」という字を示すのに草冠だけ二つ書いて略字として読ませることは中国語でも行なわれていたことです。


当時の漢語で「テン」や「ティエン」と呼ばれていた「天」を最初の音だけ取って「テ」と言う音の代用文字とすることが行なわれたのではないでしょうか。

「天」が省略されて「テ」と言う文字になっていったことは想像しやすいことだと思います。


かけ離れた文明度の低さにもかかわらず、文字を持たない言語が文字を持った言語を利用して生き残ってしまったことになります。

漢字には「やまとことば」は表現できないのです。

「やまとことば」は仮名によってしか表現できないものだったのです。


漢語による交流が閉ざされたことによって独自の言語である「古代やまとことば」に文字をつけることができました。

しかしそのための方法は、既にサンスクリット語の仏教典を漢語に文字音訳した中国にあったのです。

中国の文明は、「古代やまとことば」を表記する文字を漢語から作り出す方法も伝えてくれていたのです。


その実践は、高僧たちによる漢語で伝わった仏教典の「音義」という形で行なわれていったと思われます。

漢語になった仏教典はサンスクリット語の元の経典の音を漢語で表現したものです。

サンスクリット語が理解できなければ漢語の文字や音だけでは理解できないものです。


サンスクリット語 → 漢語への音訳技術が、「古代やまとことば」に漢語による表記法を生み出させるもとになったのです。

「仮名」としての文字が女性やこどものものとして広がっていった平安中期には、すでに元の漢字が分からないくなっているものもたくさんあったのではないでしょうか。

「仮名」が独り歩きをするようになって初めて「やまとことば」としての日本独自の文化が花開いていくことになったと思われます。

その言語感覚の基本は漢語ではなく、文字のなかった「古代やまとことば」だったのです。

明治期を経て、漢字が溢れてきました。

あらためて「仮名」について見なおしてみるにはいい機会かもしれないですね。