2015年10月13日火曜日

高僧が生んだ「仮名」の原型

「仮名」の発明がなければ日本独自の文化が育つことはなかったと思われます。

その「仮名」の発明においても、単なる中国文明の模倣による漢語の導入だけでは作り出すことができなかったのではないでしょうか。


漢語がやってくる前に文字のない言葉としての原始日本語である「古代やまとことば」があったことは間違いのないことだと思われます。

「仮名」は「古代やまとことば」を表す文字として漢語から作り出されたものです。

ただ単に漢語と「古代やまとことば」があっただけで果たして「仮名」を作り出すことが可能だったのでしょうか。


中国の文化をそのまま利用するだけであったら、そのまま漢語を専門用語として利用した方が簡単だったっと思われます。

それにもかかわらず漢語が日本語となっていかなかった理由については想像を巡らせてみました。
(参照:漢語と「古代やまとことば」

結果として、漢語は日本語とならずに「古代やまとことば」に「仮名」が生み出されたことによって「やまとことば」としての日本語が言語として定着していくこととなりました。


高度な文明が導入されたときにその文明の基盤となっている言語が文明の広がりと一緒に広がっていった歴史から見れば、「古代やまとことば」が残って基本言語なっていったことは一種の奇跡ともいえることだと思われます。

そんなことを可能にしたのも「仮名」の発明によることだと思われます。

この「仮名」の発明によって、世界でも類を見ないような日本独自の文化が生まれ継承されていくことになったと思われます。


一般的な中国の文明が漢語によって日本にもたらされたことから「仮名」の発明にいたるまでには、どうしても仏教とのかかわりを除いて結び付けることは出来ません。

おそらく漢語が導入された当時では、漢語に一番慣れ親しんでいたのは直接的に漢語で書かれた資料に触れることができた高僧たちではないでしょうか。

必然的に彼らが当時の日本における一番の知識人だったということになるのではないでしょうか。


漢語で書かれた仏教典を読んでも仏教的な知識のある人でない限り解釈をすることは出来ないと思われます。

それは、漢語が読めたとしても漢語の持っている意味では仏教典が解釈できないからです。

その漢語で書かれている仏教典が他の言語を音だけ漢語に翻訳しているものだとしたら、当時の日本人にその内容を理解することは出来るのでしょうか。


仏教典の原典はインドを発生としており、サンスクリット語で書かれたものです。

漢語の仏教典は、サンスクリット語のお経としての音を漢語の持っている音で翻訳したものです。

漢語で書かれた文字のつながりは言葉としての意味を持ったものではなく、サンスクリット語の音を漢語の音を利用して表記したものだったのです。

つまりは、漢語で書かれた仏教典は文字としての漢語を読んでも意味の通るものとはなっていないのです。


それでも、翻訳する者の気持ちとしては文字として表す以上は少しでも原意に近い文字を使用したくなるのではないでしょうか。

したがって、多少なりとも漢語が理解できる日本人が漢語による仏教典を読んだ場合には、一部が意味の通る言葉として読み取れてしまうことになります。

そのために読み取れる可能性があるとして一生懸命に漢語としての理解をしようとしてしまうことになります。


そこで、空海に代表されるような知識人は遣唐使として渡った際にも、サンスクリット語を学んできています。

そして、サンスクリット語と漢語の翻訳技術としての「悉曇学」(しったんがく)をも習得してきています。

サンスクリット語で書かれた仏教典は、音しての経を唱えるための手本です。

その経典の音を漢語の持っている音で翻訳したものが漢語による仏教典なのです。


知識人としての高僧は仏教をその分野としながらも、サンスクリット語と漢語の翻訳技術を学んできたのです。

他の文化分野ではほとんどサンスクリット語との接点はなかったのではないでしょうか。

そのために、サンスクリット語と漢語の音訳についての技術は仏教分野における高僧の最高技術となっていたのではないかと思われます。


漢語の仏教典を読めたところで音としてのお経は発することができても言葉としての意味が分からないことだらけになっているのです。

言葉としての意味を理解するためにはサンスクリット語としての言葉を理解していなければならなかったのです。


サンスクリット語のお経である仏教典をそのまま音訳したものが漢語による仏教典ですが、当然のようにその仏教典を解説した漢語による書物もあったと思われます。

一般的には「音義」と言われるお経の音としての言葉を解説したものとなります。

解説書は解説者によって解釈が異なるのが通例です。


サンスクリット語に慣れていない者たちは漢語の解説書によって理解をしていったのではないかと思われます。

漢語自体が馴染んでいない時代に、漢語を利用して「古代やまとことば」を表記する文字を生み出そうとすることは大変なことだと思われます。

仏教界においてサンスクリット語を漢語に音訳した技術を知った高僧たちが、仏教典を解説したことによって自然に「仮名」が生まれる土壌ができてきたのではないでしょうか。


それは、「〇〇経音義」として仏教典の解説書として書かれたものになります。

『万葉集』に見られる万葉仮名のような使い方になります。

仮名としての表記が一応の定着(落着き)を見せるのが最初の仮名本と言われる『竹取物語』や『古今和歌集』です。

その前に多くの「〇〇経音義」が書かれていたことでもわかると思います。


そこでは、どのように表記をしているのかを示す凡例として「いろは」や「五音表」(のちの五十音表にあたるもの)などが掲載されているものがありました。

現存する最古の「いろは」が掲載されているとしてよく取り上げられる『今光明最勝王経音義』には「五音図」も掲載されています。

漢語を「古代やまとことば」として解釈する方法も何種類かあったっと思われます。

現代風に言えば「〇〇流」というような流派的なものもできていたのではないでしょうか。

訓点や送り仮名、補助点なども流派によって工夫され作られていったものだと思われます。


漢語が文字のない「古代やまとことば」に翻訳されるためには、「古代やまとことば」が持っている音がある程度の固定性を持ったしっかりした規則性のあったことを物語っていると思われます。

「古代やまとことば」は表記するための文字をもってはいないが、音としては定着していたことをうかがわせることだと思います。

文字を持たない「ことば」というととても不安定なイメージを持ってしまいますが、「古代やまとことば」は現代の私たちが想像するよりもしっかりとした「ことば」になっていたのではないでしょうか。

そのことが、漢語に侵略されなかった大きな要因でもあったと思われます。


「仮名」を生み出したのは独自の技術や発想ではなく、既に中国にあったサンスクリット語を漢語に音訳した技術をそのまま利用したものであったと思われます。

それでもこの技術に触れることができたのはほんの一部の高僧だけだったのではないでしょうか。

仏教典に触れることのない人にとっては意味のない技術であったろうと思われます。


『万葉集』における万葉仮名には漢語の音読みを利用した「仮名」だけではなく、割合は少ないけれども訓読みを利用した「仮名」も存在しています。

また、「仮名」ではあると思われるもののいまだに解釈が確定できない表現もたくさんあります。

これは、ある程度標準的な「仮名」が誕生するための試行錯誤の期間ということができると思われます。


サンスクリット語を漢語に音訳する技術を知ったものが、その技術を利用することによって漢語を「古代やまとことば」に音訳することに挑戦していったと思われます。

初期の「いろは」や「五音表」にはいろいろな漢字が充てられています。

同じ音に対しても複数の漢字が充てられています。

それらの規則性から考えられると、母音の数がもう少し多かったことが想像できます。


しかし、過去の言葉や言語の音を見つけ出しても現代使われている音が増えるわけではありません。

言語の歴史を見ることはその変化の過程において環境を知ることができますが、そこに戻ることは出来ません。

今現在も残っていながら歴史を背負っている言葉や音がその言語の持っている感覚を作っているものとなっています。


現在残っている音の基本である五母音がどのようにして残ってきたのかを知ることは、言語の感覚を知るうえで重要なことだと思います。

消え去った音について知っても、現代の言語の感覚には役に立たないことになります。

文字倒れになっている今日に対して、言語の基本が音による「ことば」であることを改めて確認しておきたいところです。


「古代やまとことば」としての音を現代に継承した最大の貢献は、「古代やまとことば」を表記するための文字として「仮名」を生み出したことにあります。

文字としての「仮名」ができたことによって、音だけの「古代やまとことば」が「やまとことば」として活躍の場を広げていったのです。


明治期以降、圧倒的な漢字の表記と使用が増えてきて「やまとことば」の感覚が薄れてきています。

それでも私たちの言語の基本は「やまとことば」であり「かな」なのです。

今あらためて、「現代やまとことば」が求められているもかもしれませんね。