2013年5月29日水曜日

音・「ね」と「おと」

むかしの研究者の探究心は一種の執念に近かったのかもしれないと思います。

角田忠信という医者がいました。

今の東京医科歯科大の医学部を出て、耳鼻咽喉科の専門医となりましたが聴覚言語疾患に取り組むうちに脳科学にも研究分野を広げていきました。

やがて言語そのものを研究するに至っては東西文化の比較から、西洋人と異なる日本語を使用する日本人独特の脳の働きを発見することになります。

その原動力となったのは一人ずつ異なる聴覚言語障害となった患者の機能復帰を何とか果たしたいという思いでした。

1970年代のことでした。

決して言語学・文化論の専門家でもない医者の立場であっても、残された研究成果・理論は今なお十分通用するものが多くあります。


そんな中のテーマの一つに日本語を母語とする人の西洋文化・言語と際立った違いとして、自然の音に対する感じ方があります。

日本人は自然の音を言葉として感じておりほとんどの人が左脳(言語野があるほう)で感知しているということです。

西洋人は自然の音を雑音として感じており右脳で感知している人が多いそうです。

虫の音や風の音を声として感じる取ることができる日本人独特の感性は、現代においても注目を浴び始めています。



戦後何十年ものジャングル暮らしのあとに発見され、精神的に崩れずに社会復帰をはたした横井正一さんのケースなどは、西洋人から見るとよく気が狂わなかったと不思議でならないそうです。

自然界の音や動物の鳴き声を騒音と感じる彼らにとっては、見つかったことよりも人としてのまともな感覚を失わなかったことが奇跡なのです。

彼らが自然の中に放置されることはサバイバルを考えます。

日本人は同化・融合を考えます。

自然の中は想像するよりもはるかに多くの音があります。

風の音、木々の葉擦れる音、虫の声、獣の声、これらを騒音・雑音と感じたらたまったものではありません。


この感覚の違いを私は音という字の訓読みの「ね」と「おと」に見ることができるのではないかと思っています。

虫の音を「むしの」と読むのか、「むしのおと」と読むのか。

どちらで読んでも間違いではありません。

でも、日本語の感性からすると「むしの」のほうがしっくりきませんか。

音色は「ねいろ」です。「おといろ」とは言いませんね。

「ね」には色がある、感じることができるが、「おと」には色を感じることができないのではないか。

こじつけかもしれませんが・・・。

「オンショク」になってしまうと漢語(音読み)になってしまいます。

「ね」と「おと」の使い分けはまだ私たちの感覚の中に存在しているんですね。

この「ね」に我々の感性が隠されているのではないでしょうか?


こんな風に見ていくといろいろな面から日本語の特徴を見つけることができそうです。

これから若い人たちにも日本語に興味を持ってもらうためにも、いろいろな思いつきを発信していきたいと思います。

私たちにとっては昔から当たり前だったことも、若い人にとっては新鮮で新しい発見として映るかもしれません。

「これはおかしいよ、違うよ。」という反応があったらしめたもの。

日本語について考える機会ができたことですものね。