2015年9月3日木曜日

「やまとことば」と漢字の訓読み

漢字の訓読みは、個々の漢字に対して日本語の意味に相当する和語(やまとことば)によって読む方法が定着したものと言われています。

その漢字が漢語として読まれていた音が音読みであり、漢語が導入された時代によって同じ漢語であっても音が違っていたりもしています。

呉音や漢音・唐音などと言われて同じ漢語であっても読み方が異なる場合も多くなっています。


訓読みを作ることができた大きな理由の一つに、漢字という文字が表意文字であることが挙げられます。

文字そのものが意味を持っているものであるために、その意味に相当する「やまとことば」に読み替えることができたからです。

したがって、訓読みを見てみればその漢字が表している意味を知ることができるようになっています。


漢字の音読みは元の音が漢字の文字の中に含まれていることが多くなっています。

とくに画数が多く部首がはっきりしている漢字の場合は音読みの音が部首のどこかにあることが多いために、読み方の知らない漢字であっても音読みであれば想像することも可能となっています。

漢字そのものから音読みとしての音を見つけることが可能となっているのです。


ところが、訓読みは漢字の持っている意味を表していますので、文字を見ていても読み方は見つかりません。

その文字の持っている意味が分からなければ訓読みを見つける手掛かりがないことになります。


訓読みの「訓」は「よむ」という意味ですが、より詳しくは「ときほぐしてよむ」ことを意味するものとなります。

つまりは、漢字の訓読みとはその漢字の意味を日本語としてより優しく解説したり言い換えたりすることになります。

漢語を日本語(やまとことば)に翻訳する行為そのものが訓読みであり、和語に解きほぐすことから和訓と呼ばれてきました。


文字のなかった時代に中国から当時の世界最先端の文明が漢語によってもたらされてきました。

話し言葉だけではなく文字という強烈な伝達方法を持ち、音では理解できなくとも文字を見ればその意味を理解できる表意文字を持った圧倒的に進んだ文明に対して、音しかない自分たちの言葉に翻訳をするという行為を行なったのです。

自分たちの持っていた言葉では表せないような技術や文化ばかりだったのではないでしょうか。


圧倒的な文明度の違いは高度な文明によって使用されている言語による侵略を意味します。

その文明の恩恵を受けようとすればするほど、その言語による侵略の速度は速くなります。

文明度の差は、持っている言葉の大きさに比例します。

大きな文明の持っている技術や文化を小さな文明の持っている言語では表現しきれないからです。

そのニュアンスを伝えきれる表現を持っていないからです。

結果として、大きな文明が押し寄せてきた場合にはその文明の浸透に応じて言語そのものも浸透していくこととなっていくのです。


この当たり前の言語進化論に逆らった奇跡が起きたのが「やまとことば」による漢語の翻訳だったのです。

本来ならば、日本語は漢語になっていてもおかしくなかったのです、漢語になっていなければならなかったはずなのです。
(参照:原始日本語はなぜ残ったか?


「古事記」においては漢語で書かれていますが、そこには万葉仮名による翻訳の訓読みのための注釈がつけられています。

その訓注は一つの漢字に対して複数のものが存在し、しかも固定的ではなかったと言われています。


平安時代の末期に作られたとされている漢語と和語(やまとことば)を翻訳するための字典と言われている「類聚名義抄」では、漢字一字に対して30以上の訓があるものもあるようです。

漢語という外国語を「やまとことば」として読んで理解するための語順や意味を表してきたものと言えるでしょう。


話し言葉だけであった「古代やまとことば」では、語順や文法的な規制はかなり自由度が高かったと思われます。

単語のつながりだけでコミュニケーションが行なわれていたと思われることからは、語順や文法は存在しなかったとも考えられます。

文字が導入されたことによって長い言葉(文章的なもの)も使われるようになり理解されるようになったと思われます。

そのためには、書かれた要素としての言葉同士の関係や時間的な前後の関係が必要になってきたのではないでしょうか。


日本語は話し言葉が先にあり、外国語としての漢語を話し言葉として理解するために翻訳が行なわれ、そのために外国語の語順や文法を理解していくことによって出来てきたのではないでしょうか。

一呼吸で発する音の数としては十二音はとても自然な長さです。

その十二音にリズムをつけると七音五音がとてもうまくはまります。


「万葉集」に見るように、話し言葉としての歌である長歌や短歌は文字のない時代でも広く行なわれていたと思われます。

語尾変化や助詞などは、単語をつなぐものとして自然発生的に生まれてきていたのではないでしょうか。

七音五音のリズムを整えながらも、短かい話し言葉の中での要素の関係がわかり易いように工夫されてきていたのではないでしょうか。


言葉の多さは文化としての大きさや懐の広さを意味していると思われます。

一つの漢字にあてた訓の多さが持っていた言葉の多さを物語っているのではないでしょうか。

「上」という漢字にあてられた訓は、「うえ」「かみ」「あがる」「のぼる」など送り仮名によっては動詞としても使われています。

現在使用されている漢字で最も訓読みの多いものは「生」という字だと思われます。


文字としては単純な漢字の方が多くの訓読みを持っているようです。

複雑な漢字ほどより具体的なものを表していますので、このようなことになっているのではないでしょうか。

複数の訓読みを持つ漢字を見ていくと、より多くの訓読みを持つ漢字が「やまとことば」としての登場場面も多いように思えます。


一つの漢字に対して複数の「やまとことば」を当てることができるほど多くの言葉を「やまとことば」が持っていたということなのでしょう。

より高度な文明が文字を持った言語でやってきたときに、文字を持たない話し言葉だけの文化の方がその文明を取り込んでいくことができたのは、思っていた以上に多くの話し言葉を持っていたことによるのかもしれません。


漢語の導入は結果として「やまとことば」の更なる充実と拡大につながっていたのではないでしょうか。

そして、決定的だったことが行なわれるようになります。

漢語を利用して「やまとことば」を表記するための文字であるひらがなを生み出していったのです。


やがて、漢語は漢字として「やまとことば」を表記するための文字の一部となっていくことになるのです。

ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットという表記文字を持っている日本語は、世界の言語のなかで最も懐の広い言語となっていったのです。


日本語自体が持っている基本的な感覚は、古代日本の環境が作ってきた歴史文化に基づくものです。

そこには、共生のために自分自信を適応させていくという基本的な感覚が根付いています。

結果として周りの者との共生をしながら自らの適応能力をさらに高めていくことにつながっているのではないでしょうか。


その根底にある「やまとことば」としてのひらがなをもっと大切にしていきたいですね。