2015年7月30日木曜日

主観客観と言語感覚

親しい関係にある人からの意見や批判は忠告やサジェスチョンとして素直に受け入れることができるのに、知らない人からの意見や批判は敵意を持って全面人格否定のように受け止めてしまいがちです。

相手に対して抱いている感覚があったとしても、具体的に表現されなければそれは分かりません。

また、自分が相手に対して抱いている自分との関係に置けるポジションと、相手が自分に対して抱いている両者の関係としてのポジションが上手く対比しているとも限りません。

それはお互いの発せられた表現を持って確認することしかできません。


とくに相手との関係が見えていないときはある程度の推測をしますが、結果的にはそれ以上に丁寧な失礼にならない表現を心掛けるようになっています。

英語においては、一人称の代名詞はどんな相手に対してでも「アイ(I)」しかありませんが、日本語においては相手との関係において様々な代名詞が使用されます。

「わたくし」「わたし」「ぼく」「おれ」「おいら」「自分」「ウチ」、古くは「朕」「拙者」「拙僧」「手前」など、まだまだたくさんあります。


これば二人称においても同じことが言えます。

英語においては「ユウ(you)」しかありませんが、日本語においては数多くの二人称を表わす表現が存在しています。

それは、省略することも含めて現代でも使い分けをされています。


日本語におけるこれらの使い分けは、客観的に見た両者の関係からなされているものではありません。

あくまでもそれぞれの感じているお互いの関係から発せられるものになります。

状況によっても変化する両者の関係は、瞬時に変化することもあります。

それによって、表現に使われる言葉まで変わってくるのです。


日本語の敬語の多さと使用場面の設定のむずかしさは、お互いの関係や状況によって常に変化することにあります。

それはお互いの感覚によって行われていることであり、文法的に使用法を設定できるものではないのです。

「ふさわしい」という日本語が最適な解ではないでしょうか。

「ふさわしくない」もの以外はどんな使い方をしてもかまわないことになります。

そして、「ふさわしい」「ふさわしくない」を感じるのも当事者の感覚によるものであり客観的な基準は設定できないと思われます。


とにかく、日本語の感覚では"客観的"という言葉が当てはまるような状況はほとんどないと思った方がいいのではないでしょうか。

客観は主観に対応する言葉です。

自己の感覚や意見に基づくものが主観であり、自己の感覚や意見を排除したものが客観と言われます。


ところが、日本語が持っている基本的な感覚は、固定的な絶対的な自己の感覚や意見が存在しないのです。

移りゆく環境の中での相対的な存在として自己(個)を捉えているのが日本語の感覚です。

絶対的な個を核として周りの環境をとらえている欧米型言語文化の感覚と大きく異なるところです。


環境に合わせて共生するために変化するのが個である日本語の感覚では、環境と対比するための絶対的な個は存在しないのです。

究極の個は、あらゆる環境の変化に対して無意識のうちに適応して共存していくことができるものとなります。

これに対して、欧米型言語の感覚における個は、あらゆる環境に対して影響を及ぼすことができる強力な個が究極の姿になります。


ともに、究極の個を目指して努力をするのですが、日本語の感覚ではどんな環境の変化にも対応して共生できるための内なる力をつけることに努力します。

欧米型言語の感覚では、より大きな広い環境に対して影響を与えらえるように外に対しての個の力をつけることに努力することなります。

言い方を変えれば、日本語の感覚は主観と客観を果てしなく融合させようとする努力であり、欧米型言語の感覚は主観と客観をとことん明確に区別させようとする努力になります。


それぞれの言語で作為なく自然な文章作ってみるとよく分かるのではないでしょうか。

英語においては、事実なのか意見なのか推測なのかが文章の初めの数語で明確にわかるようになっています。

日本語では、すべて読み終えたあとであっても事実なのか意見なのか推測なのか分からない文章がたくさんできてしまいます。

特に話し言葉においてはよりわかり易い現象が起こります。


相手を目の前にして話している場合には、同じ内容でありながらも相手の反応を見ながら事実になったり意見になったり変化してしまうのです。

結論が最後に来る日本語の一つの特徴ともいえます。

政治家の演説などではとてもよく見ることができます。

勇ましい単語や表現が美辞麗句と共にならんでいるのに、結論は自分の意見ではなかったりどこかから借りてきたものだったりするのです。

その場合にも多いことは、主語がないことが多いために「・・・と解釈しています。」と結んだところで、自分が解釈しているのだか誰かの意見なのだかは分からないのです。


また、せっかく自分の言葉で話をしているのに、少し表現を間違えただけで本旨とは関係のないことで取り上げて批判するマスコミの程度の低さも、国民のレベルの反映されたものなのでしょうか。

日本語の感覚には変化に適応しようとする個がいますので、ゆるぎない個や絶対的な個は存在しません。

それが分かっているだけに、反対に確固たる個に対しての憧憬もあるのではないでしょうか。


日本語の基本は状況対応型の傾向を持っています。

長い歴史文化の中で生み出され継承されてきた言語は、その言語を使用する民族にとってはまさしく継承されてきた歴史文化の発現です。

その言語を使用しているだけで、基本的に持っている感覚があるのです。


英語は世界の共通語となっています。

英語に触れずに生きていくことは、もはや不可能な時代となっています。

英語は日本語とは対極をなす目標志向型の言語です。

日本語の感覚を持って英語の感覚を理解することは難しいことです。

英語を使えるように覚えたり習得するための言語が日本語だからです。


英語の持っている感覚を理解することができても、日本語を母語として持っている私たちがその感覚になることは出来ません。

基本的に相いれないものが多い言語同士なのです。

違っていることを理解し、日本語としての感覚に基づいて英語で表現すればいいことです。

日本語感覚の英語でいいのです。


既に、ノーベル賞を受賞された多くの日本人が受賞スピーチでその手本を示してくれています。

決して流暢でも英語として素晴らしいものでもありませんが、英語を母語とする彼らにとってもわかり易い日本語の特徴がよく出た英語なのです。

自然科学分野でノーベル賞を取った日本人の英語スピーチには大きなヒントがあると思われます。


英語感覚が日本語感覚を理解することよりも、日本語感覚が英語感覚を理解することの方がはるかに簡単なことです。

それは言語の持っている豊かさと基本的な感覚を知ればすぐにわかることだと思います。

現実に行っていることでもありますね。


主観と客観を無理に区別しようとしないのが日本語の感覚です。

無理に区別しようとすると、主観を明確にさせなければならなくなります。

これは日本語では苦手なことなのです。

何事も明確に分類され区別されることが決していいことだとは限らないのです。


置かれた環境においてその変化に適応して共生していこうとする基本的な感覚は、状況対応型として私たちの日常にも根付いていることなのです。

この感覚を持っているのに、無理に目標志向型の環境を作り欧米社会に合わせてきたのが現代日本社会ではないでしょうか。

もうそろそろ日本語の感覚に対して素直に対応していってもいいのではないでしょうか。

世界でもぶっちぎりのストレス社会となっている日本の現状は、こんなところにも一因があるのかもしれないですね。