言語の持っている感覚にも二種類の型があると思われます。
一つは英語を典型とする目標志向型であり、もう一つが日本語を典型とする状況対応型です。
(参照:目標志向と状況対応)
それぞれの内容については、過去にも何度か触れていますので参照してください。
植民地や侵略を受けたりといった特殊な事情でもない限りは、その民族が持っている言語の型の傾向で社会が作られていきます。
ところが特殊な状況下では、強制的に社会の構造が植え付けられていきますので、もともと持っていた言語の型と異なった傾向の社会が作られていくことがあります。
もともと持っていた言語の型と植え付けられた社会の型が同じような傾向を持っている場合は素直に根付いていくことが考えられますが、言語と社会の型が異なる場合には根本的な矛盾や違和感を持った社会となってしまいます。
しかも、その民族に懸隔として刷り込まれているのは母語として持っている言語の型になりますので、社会生活における様々な場面で矛盾が生じることになります。
それでも、社会に合わせていくことでストレスを感じる人の多い社会となっていきます。
(参照:気質と言語と社会)
日本語が本来的に持っている基本的な感覚は、状況対応型ということができます。
これば日本語が持っている文の構造からも見えてきます。
主語が省略されることが多い日本語は、英語に比べると主体者が曖昧になる傾向があります。
はっきりとした主体者がなくとも文章が成り立ってしまいます。
その替わりに状況を説明するための言葉は驚くほどたくさん持っており、沢山の修飾語を一つの文の中に盛り込むことができます。
英語のように「誰がどうした」が基本構造になっていないために、人(個)を重視した構図とはなっていないのです。
どうしても、自分の主張や人の意見といった感覚が薄くなってしまう構図になっているのです。
さらには、「どうした」に当たる述語(動詞)が文の一番最後にくる構図になっています。
人(個)を重視する英語は主語がいちばん前にきて、次に述語がくるようになっています。
この構図によって、英語は誰がどうしたが自然と重視されるようになっているです。
その結果、パラグラフ(段落)としても長い文章にしても、結論が前にくる構図になっていくことになっているのです。
日本語は最後に述語がきますので文が完全に終わるまで何が重要なのかがよく分かりません。
登場してくる要素(主語や修飾語、目的語など)を最後の述語が登場してくるまで、すべて同等に理解しておく必要があります。
最後の述語が登場して初めて、それらの要素の重要さや順番が分かるようになってくることになります。
日本語の場合はパラグラフ(段落)や長い文章にしても結論が最後に来る傾向がありますので、最後まで読まないと登場してくる要素の関係が分からないことになります。
英語の場合は、パラグラフの先頭の行だけを飛ばし読みしても全体の論旨をつかむことが可能であり、ほとんど取り間違えることはありません。
作文術としてもそのように教育されてきているからです。
パラグラフの先頭行だけを飛ばし読みしても分からないような文章は、悪文として非難されることにもなるからです。
英語は言語によって論理と意見を伝えるためのものとなっています。
言語で表現して伝えることができないものは、検討の対象とすることができないと言ってもいいでしょう。
自分の意見を述べそれを立証するための論理で説得するための言語と言ってもいいかと思います。
日本語にももちろん同じような役割はありますが、英語のようにそのために徹した言語とはなっていません。
むしろ、日本語という言語を使って言葉や表現を楽しむための機能の方が強い言語となっています。
したがって、個人の意見を表明し説得することよりも、様々表現方法を駆使して直接的な言い方を避けながら状況や心情を描写していくことが得意な言語なっています。
目標を設定して、そこに至る方法を選択し具体的な手段を講じていくのはどちらの言語の方が適しているでしょうか。
経済性や効率性を追求していくにはどちらの言語の方が向いているでしょうか。
協調性や自然との共生のためにはどちらの言語が向いているでしょうか。
現代の文化と技術の基盤を作ってきたのは欧米型の目標志向型の言語です。
それらの言語の感覚で作られた社会が理想とされすべての民族がそこを目指してきました。
日本は、状況対応型の言語を持ちながらも明治維新や太平洋戦争後の占領軍の指導の下に目標志向型の社会を作ってきました。
(参照:日本語にとっての明治維新)
それは、国の運営や企業経営、教育やあらゆる制度において社会全般で共通した価値観として植えつけられてきました。
目標を明確に設定し、そこに至る最善の方法を選択し期限を設定して成し遂げることが唯一の方法論として植えつけられてきました。
成功と失敗、勝者と敗者、売り手と買い手は明確にどちらかに区分されて評価される社会となっていたのです。
状況対応型の日本語の感覚は、明確な分類はありません。
あらゆることがYESとNOの中間に位置しており、状況によってそのポジションが常に変化している感覚です。
完全なYESも完全なNOも存在しません。
常にYESとNOの間を変化しながら動いていることになります。
この感覚に慣れているのが日本語の状況対応型の感覚なのです。
今までの目標志向型の感覚から見ると、状況対応型は敗者の理論と映ります。
目標を明確に定めることのない逃避の理論と映ります。
方向を定めて脇目も振らずに目標を達成することからの逃避と言い訳として映ります。
それはすべて、目標志向型の教育や社会によって目標志向型でしか評価されない価値観を植え付けてしまったからなのです。
両方とも合っていいのです。
単なる感覚の違いなのです。
アプローチの違いなのです。
日本語は状況対応型の言語でありながらも、明治維新や戦後社会によって目標志向型での対応を身につけてきたのです。
とても器用な言語なっています。
そのために、表現の豊かさや言葉の多さは他の言語の追随を許さないほどの膨大なものとなっています。
しかし、言語の基本的な感覚そのものは千年以上何も変わっていないのです。
基本的な感覚は状況対応型なのです。
表面的に目標志向型を理解することができるだけのことなのです。
この目標志向型と状況対応型は個人の持って生まれた傾向としても存在しています。
持って生まれた傾向が目標志向型の人の方が、現代社会への適合はしやすいことになります。
一線で、ストレス感じることなく競争社会で活躍している人たちのほとんどが目標志向型であろうことは容易に想像できることです。
反対に、状況対応型を持って生まれた人は、現代社会ではいたるところでストレスを感じることになります。
したがって、どちらかといえば個人的な活動や文化芸術的な競争的要素の少ない協調的な共生活動の方に適合しやすくなります。
世界でも圧倒的にストレスを感じる人の率の高い社会である日本は、こんなところにも大きな原因があるのではないでしょうか。
状況対応型についてもう少し意識してみてもいいのではないかと思います。
最近は、アメリカでもマネジメント理論にも「状況対応型マネジメント」や「状況対応型リーダーシップ」という表現が見られるようなりました。
いつくか見てみましたが、そこで展開されてる論理は目標志向型に分析によるものでしかありませんでした。
理解はしやすいものとなっていますが、せいぜい目標志向型が状況対応型を理解しようとするために入門程度で考えておいた方がよさそうです。
論理性と説得が苦手な状況対応型が、人を動かすための論理を展開することはとても難しいことです。
状況対応型が人を動かすかのは感情によるものが中心になります。
感情を殺してでも論理を優先させてそれに従うのが目標志向型であり、論理を理解して納得しても感情を優先させるのが状況対応型です。
説明の上手な目標志向型に対して、何を言っているのかよく分からないが感動したとなるのが状況対応型です。
今まではあまり評価されないことが多かったのではないでしょうか。
これからは、出番がたくさん来るはずです。
その前に、状況対応型を理解して意識しておくことが大切になりそうですね。