2015年7月16日木曜日

言語の感覚に逆らうこと

それぞれの言語が持っている固有の感覚というものが存在するようです。

全く同じ論理や意見を同時に受けったとしても、使われている言語によって理解されるニュアンスが異なることが起きます。

しかも言語の種類によって、特徴的な傾向を持ったものとなっているようです。


さらには、同じ言語であったとしても個人が持っている言語は厳密にはすべて微妙に違っていますので、個人によって理解されるニュアンスが違っていることになります。

もちろん、言語の違いによる感覚の差異の方が、同じ言語内での個人の際よりも大きく明確であることになります。


しかし、実際に他の言語との基本的な感覚の違いを感じることができる場面は決して多くあるわけではありません。

意識することがなければ生涯感じることがないこともあると思われます。


一般的に考えれば、言語はその言語を使用する民族の精神文化が反映されたものであり、精神文化を継承していく唯一のツールでもあります。

したがって、その民族が生活している社会は使用している言語の感覚が反映されたものであり、言語の持っている性格と傾向を同一としたものとなっていることになります。

これを妨げるものがあるとすれば、植民地のような圧倒的な力による強制的な文化や社会環境の押し付けではないでしょうか。

この場合であっても、長い時間を経過することによって言語の持っている感覚と現実社会との融合や修正が行なわれていくのではないかと思われます。


特に、強制的に作られた社会環境に対しては、もともとの民族が持っている言語の感覚や性格の傾向に修正されて折り合いをつけていくことが行なわれることになります。

植民地として精神文化的な侵略を受けながらも、固有の言語を維持してきた地域の民族自立の傾向は自然の流れと思われます。

社会環境を変えることよりも言語を変えることの方がより長い時間を必要とするからです。

その間に、言語の方も少しずつ現実の社会の持つ感覚や正確に近づいていくことになるのでしょう。

変化するスピードが言語よりも現実社会の方が早いし簡単であるということになります。


日本のように、敗戦によって戦勝国の社会環境や思想を植え付けられることもこれに近いことだと思われます。

そもそも戦争状態になった直接原因は意外とささいなことが多いものですが、当事者双方にとっては大義名分が必要になりますので史実としては誇大に記録されていることが多くなります。

実際には、直接的な原因に至るまでのそれぞれの言語が持っている感覚の違いが、同じ事象や事実に対しての理解の仕方の違いを生んでいたことが大きいのではないでしょうか。


なかでも、起源を同じくする言語でありながらも同じ言葉に対しての解釈や感覚が異なる場合には、その感覚の違いを理解し合うことがとても難しくなってしまいます。

言葉自体は同じですので、それぞれの言語において独り歩きしながらも違った感覚で理解されていくことがいたるところで起きていくのではないでしょうか。

表面上は理解でき易いと思われるだけに、その感覚の違いはかなり根深いところで起こることになるのです。


アジアにおける同じ漢字を使う言語である、中国語、韓国語、ベトナム語、日本語においては、仲のいい場合にはとことんいいのですが、仲が悪くなると更にとことん感覚的に悪くなりますので表面的な外交では修復不可能なことになるのではないでしょうか。

ささやかな交渉の行き違いが大きな溝を生むことになるのも、言語が近い場合の方が多いようです。

むしろ、まったく共通性を持たない言語同士の方が外交においてはうまく機能する場合が多いように思います。


現在の日本の社会は、太平洋戦争後のアメリカを中心とした占領国の統治により指導された社会環境が基本になっています。

それは国の運営から教育や企業活動まで生活をしてるあらゆる分野に及んでいます。

これらは英語の感覚によって作られた社会となっているのです。


日本語の感覚が英語の感覚と近いものであれば大きな問題になっていくこともなかったのではないでしょうか。

また、英語が世界の共通語という立場をどんどん強固にしていく中では、対世界においては幸運だったと言えるのかもしれません。

もともとが言語界の孤児と言われるような独特な言語を他の言語の影響をほとんど受けることなく醸成した日本語は、世界と接点を持たざるを得なくなった明治期には、大変な苦労をして彼らの文化や技術を取り入れるために言語を対応させていきました。
(参照:明治が生んだ新日本語

わずか150年前のことです。


アメリカ合衆国の成立をワシントンが初代大統領となった年だとすれば1789年であり、これとても225年ほど前のことです。

それ以降、世界の覇者としての道をひたすら歩み続けたアメリカの英語は、同じ英語であっても母国のイギリス英語とは感覚としてかなり異なったものとなっていきました。

明確な意志と意見を持ち、説得するための論理と効率を追及してきたアメリカ英語は、自分の意志よりも環境との共生のために自分を変化させることを選ぶ日本語とは正反対の感覚を持った言語となっています。
(参照:日本語 vs 英語


言語の持っている感覚は、理屈や論理としてよりも感覚として知らないうちに身についています。

母語の持っている感覚は、意識しなくとも人の知的活動のあらゆる場面に影響を与えています。

知的活動の結果として行われる行動においては、言語の持っている感覚は想像以上の影響力を持っていることになります。

理由はよく分からないが「?」と感じることや違和感は、そのほとんどが言語の持っている感覚と合わないことではないでしょうか。



日本の社会は、日本語の感覚とは大きく異なった感覚で出来上がっています。

長い間に、言語からのアプローチや現実社会の方を修正することが行なわれてきました。

しかし、言語そのものが変わっていない以上その言語が持っている基本的な感覚に大きな変化はありません。

ましてや、文字のなかった時代より2000年にも及ぼうかとする同一言語を継承しつづけている日本語においては、その基本的な感覚も変わらずに継承されてきていると思われます。


アメリカ英語の感覚を目標指向型といい、日本語の感覚を状況対応型ということがあります。

もともとは、動物占いにおける一番大きな分類としての二分類に使用されている表現ですが、まさしくそのまま英語と日本語の関係に当てはまるものです。
(参照:目標志向と状況対応


言語の感覚と異なる環境に晒されることは、ストレスを感じることになります。

日本の社会人が社会生活でストレスを感じていたりうつ病であったりする率が、世界でもぶっちぎりで高いのは基本的な感覚そのものが受入れられないからではないでしょうか。


意思表示の苦手な日本人は、我慢することを美徳とする感覚があります。

周りの人や一般的なことと異なることは、恥かしいことや劣っていることだとする感覚があります。

目標志向型からすると、目標を達成することにおいてはあらゆる手段を使いますので、結果を求めるためにこれらの感覚までも利用することになります。

目標志向型からすると、競争を回避するよりも競争を勝ち上がることことを重視しますので手段においてはかなりのことまでやります。


社会の環境の中でも企業経営における環境がアメリカ英語の影響をいちばん受けている分野ではないでしょうか。

企業としての取引関係がアメリカ英語を基盤とする企業となるばあには、この現象が極端に出ていることがあります。

アメリカ英語を母語とする彼らには心地よい環境であっても、日本語を母語とする者にとっては大きなストレスとなっている場面が多いと思われます。

論理や形だけを真似た日本企業が最悪の環境ということになるのでしょうか。


言語の感覚に逆らうことは大きな弊害があると思われます。

それを回避するためには、自分の持っている母語の感覚を知っておかなければなりません。

よほど意識をしていないと、言語の感覚について知る機会はほとんどないと思います。

そんな人たちにも役に立つ発信をしていきたいと思います。




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