2015年7月14日火曜日

日本語消滅の危機

かつて、日本語の消滅の危機が2回あったと言われています。

1回目が明治維新であり、2回目が太平洋戦争敗戦後の占領軍統治の時になります。


この2回の危機は、その発端としては大きな違いがあります。

明治維新のときは、日本が自ら日本語を捨てて英語を国語にしようにとしました。

占領軍統治下では、アメリカ型民主主義の刷り込みとして強制的に英語を国語にしようとされたことです。


明治維新の時には、それまでの鎖国から一気に西欧の産業革命を終えた文化や技術を見せつけられることになります。

特に西欧に派遣されて自ら直接彼らの文化技術に触れた者ほど、その圧倒的な差に打ちのめされることになります。

自ら進んで、イギリスやフランスの属国となったほうがいいと考える者たちも決して少なくなかったと言われています。


西欧文化や技術の取得の先頭に立った者の中に、福沢諭吉や西周らがいます。

彼らは、日本の国語を英語にすることを真剣考え実行に移す計画までを作り上げていました。

それにストップをかけたのが、当時の文部省に文化技術の指導として招聘していたイギリス人たちだったと言われています。

伝統文化に敬意を払う彼らが、日本独特の文化伝統が消えていくのを惜しんで英語の国語化に反対したと言われています。


明治維新当時の西欧文化との接点になった都市が横浜でした。

横浜にはあらゆる業種において「亀屋」がたくさんできたそうです。

外国人たちが頻繁に使う言葉で日本人の耳には「かめや」と聞こえる言葉から取った屋号です。

また、この屋号を連呼することによって、外国人たちは店の中を覗くようになったとも言われています。


そうです、「亀屋」はCome here.の音だけを拾って漢字に充てたものだったのです。

横浜には様々な業種の「亀屋」が生まれたと言われています。


占領軍統治下の日本では、英語による戦後教育と英語の国語化が検討されていました。

言葉の違いはニュアンスや感覚の違いを目に見えないところで生んでいきます。

アメリカ型民主主義を植え付けるために英語を国語化しようとすることは、きわめて論理的な結論と言えます。


これにストップをかけたのが、日本人の識字率の高さでした。

明治期以降の教育制度の効果によって、この当時の日本人の識字率(国語の読み書きができる人口比率)は世界でも類を見ない高さにあったと言われています。

そのことを理解した占領軍は、まったく新しい英語による教育よりも識字率の高さを生かした日本語による戦後教育・アメリカ型民主主義の刷り込みの方が効率的であると考えることになります。

その結果、日本語によるアメリカ型戦後教育が行われていくことになるのです。


言語は、その言語を使ってきた民族の精神文化そのものであり、言語によって精神文化が継承されていくものでもあります。

言語の違いは基本的な精神文化の違いを内在させており、仮に表面的な言葉が同じであったとしても、その言葉によるニュアンスや感覚には微妙なズレが潜んでいることになります。

ましてや、日本語は世界でも完全に孤立した独特の言語であり、言語としての性格は西欧型言語と大きく異なるものとなっています。

日本語が残ったことによって、日本の独自の文化伝統が継承され続けていくことが可能となったと言えるのではないでしょうか。


いまや、日本の孤立した独自性は世界の注目を集める文化となっています。

それだけではなく、欧米型言語の文化の行き詰まった社会における一筋の救世主的な存在ともなっているのです。

気づいていないのは、日本人だけかもしれません。


日本語を存続させておいたよかったと世界から思ってもらえるような活動で応えていきたいですね。

そのためには、他の言語のことも知らなければいけませんし日本語についてももっと知らなければいけないと思います。

世界に対して誇りを持って伝えることができる言語である日本語を、しっかりと伝えていきたいものです。