2015年6月15日月曜日

人を決める三要素

先回は占いについて触れてみました。
(参照:占いと言語

もう少し正確に表現すると、生まれた時にすでに持っていると思われる個人としての気質的なものについて触れてみたと言った方がいいかもしれません。

かなり科学的なものであり、占いというよりは統計学といった方がいいのかもしれません。


つまり、人には持って生まれた気質があり、これに後天的な要因が加わって個人としての性質(個性)が形成されていくと思われます。

後天的な要因の最たるものが言語(母語)ではないでしょうか。

あらゆる知的活動は言語によって行われていますので、もの心がつき始めからは母語としての言語による活動で判断や行動をしていくことになります。


言語は生まれてからすぐに身に付き始めて、知的活動が行われる前からそれぞれの言語に適した知的活動のための器官が発達していきます。

持って生まれた気質から見れば、第二の本能ともいえるものとなり、言語が持っている基本的な感覚は個人としての人間形成に大きな影響を与えていると思われます。

特に日本語は、世界の他の言語と比較したときにきわめて独特な特徴を有しています。

そのために、日本人は世界から見てもきわめて独特な特徴を持った民族として映っているのです。


それでは、同じ日時に生まれて同じように日本語を母語としている人が、個性的にも同じようなものなのかといえば明らかにNoです。

持って生まれた気質と母語以外にさらに後天的な要因があると思われます。

それが、それぞれの環境における体験ではないでしょうか。

とくに、知的活動が活発に行われるようになるもの心がついてからの体験は、個人としての性格(個性)を形成する大きな要素となっていると思われます。


同じような環境で同じような体験をしても、そこでの感覚は持っている気質と母語によって異なりますので知的活動として受け取る結果も異なることになります。

さらに、同じ日本語という言語を母語として持っていると言っても、母親から伝承された言語である母語は厳密に言えば一人ひとり異なった言語となっているものです。

知的活動のためのツールとしての基準が微妙に異なっていると思った方がいいと思います。


したがって、それぞれの環境における体験によって蓄積される判断基準が出来上がってきます。

これが、一人ひとりの価値観ではないでしょうか。

同じ貧乏の環境にあったとしても、それを恥かしい悔しいと思って生きてきた場合と、周りと大して違わないと思って生きてきた場合では明らかに価値観が違ってきます。

そのことは、金銭的なことに対する判断基準や行動として現れてくることになります。


価値観は、持って生まれた気質や母語よりもさらに後天的に形成されていきますので、価値観を決めるための材料には多くのものが採り込まれていきます。

教育もあれば、自分で得た知識もあるし、特殊な環境における独特の判断基準もあるのではないでしょうか。

それらは、すべて言語によって伝えられ認識していきますので、価値観の形成においても言語の持っている役割は大きいと言うことができます。

同じ価値基準を伝えようとしても、言語技術によっては異なったものとして伝わることもあるからです。


伝えるのも言語ならば、理解するのも言語です。

しかも一人ひとりが微妙に違った日本語という言語ということになります。

さらに、価値観については自分で築いた基準というものはかなり少ないと思われます。

その時の環境において優位者の都合の良いように作られた価値観は山ほど存在しています。

また、一般常識や世間体などといった押し付けられた価値観もたくさん存在しています。

いわゆる「ねばならない」に基づく価値観がかなりたくさんあるのではないでしょうか。


日本語の持つ感覚には、価値観に対してはとても寛容な感覚となっています。

誰もがどのように感じようとも、どのような価値観を持とうとも何の問題もないような感覚となっています。

宗教に対する感覚ひとつをとってみてもわかるのではないでしょうか。


ただし、村八分のような行動が行なわれた裏には、表面的には共同体としての価値観の共有を必要としていたことがあるのではないでしょうか。

それは自然という人力の及ばない環境変化に対して、協力して対応して生きてくことを撰んだ必然だったと思われます。

そこでも行動としての共通性は求められましたが、価値観という感覚はなかったと思われます。


あらためて日本語の持っている感覚について見る目をもらった気がします。

持って生まれた基本的な気質に一番大きな影響を与えているのが母語としての言語だったのです。

そんな観点から、あらためて日本語の持っている感覚についても見直してみたいと思います。