2015年6月5日金曜日

日本語の感覚と「個」の関係

個の確立、個の自立などという概念は日本語が持っている伝統的な感覚にはなかったものだと思われます。

明治期以降に一気に大量に流れ込んできた西欧文明の地盤となる概念です。

植民地化の危機を逃れるためには、一刻も早く彼らに対抗できる文化と力を持たなければなりませんでした。

富国強兵が国の基本方針であり、和魂洋才がそのための手段となりました。

産業革命を経験した西欧文明には簡単には追いつけませんので、模倣することがその最短の道となりました。


明治期までの日本の感覚には、西欧文明における「個」のような感覚はありません。

人としての感覚よりは「家」を守り発展させるための道具の一つという感覚であったと思われます。

「家」の感覚もその役割によっては小さなものから大きなものまであったのではないでしょうか。

生活する環境が厳しくなれば守りきれる「家」どんどん小さな範囲になっていったであろうことは簡単に想像できることだと思います。


最小限の家族としての「家」から組織や藩のような「一家」や幕末における「国家」を思う感覚など、方向は違えども「家」を守り発展させるための道具として存在していたのが人ではなかったでしょうか。

そこには「個」の感覚はありません。


滅私奉公という言葉自体がかなり新しい言葉になります。

「私」という感覚が生まれない限り滅私奉公自体が成り立たないからです。

歌詞における「わたし」の登場を見てきたときには、言葉として登場してくるのは昭和になってからのことになっていました。
(参照:いつから「私」と言いだした


第二次世界大戦までの日本には、西欧文化を取り込んできていても「個」の概念については理解できなかったのではないかと思われます。

紹介されたとしても理解できなかったというのが本当ではなかったでしょうか。


社会の構造や環境が、「家」中心のままであったために生きていくための単位としてそこから離れることができなかったと思われます。

大正期にデモクラシーとしていろいろな活動が行われましたが、それでも「個」の概念に基づいて行われたことはほとんど受け入れられなかったと思われます。

「家」という生活単位を中心とした民主化運動と言えるのではないでしょうか。


「個」の感覚が強調され出したのは戦後復興の経済成長に伴って、個の貧富の差が大きくなってくるころからではないでしょうか。

もともと、環境に対しての適応能力の高さを目指す日本語の感覚は、「個」を意識することが苦手にできています。

「個」を軸に社会が構成されている西欧とは、感覚としてかなりのズレを持っているものとなっています。


具体的な物体として存在する「個」は共通であっても、日本語の感覚における「個」は自分の意思を持たずあらゆる環境の変化に対して体操して適応していくことが理想形として捕えられています。

そのために、あらゆる環境に適応できるチカラを身に付けることが究極の目標となっています。

この感覚は今でも根強く存在しているモノであり、自分自身を特別視・重要視する感覚はほとんどないと思われます。


これに対して西欧型の「個」の感覚は、自分自身を特別視・重要視することが当たり前であり、「個」を中心として影響力を与えることができる環境へ出ていこうとするものです。

環境に対応して共生していこうとする日本語の感覚とは、正反対と言ってもいいものとなっています。


日本においての西欧型の「個」の感覚が目立ってきたのは本当に数十年の間ではないでしょうか。

しかも、日本語が持っている自分に対する感覚との折り合いがいまだにうまくできていないものとなっています。


日本語の感覚では、個性はないものとなっているのです。

個性が強い人が増えたということではないと思います。

馴染んでいない「個」の扱いとして、「自分」を重要視・特別視する風潮があって、「自分へのご褒美」「自分を褒めてあげたい」「私仕様」といった言葉が氾濫していることが感じ取れます。


もともとはっきりとした「自分」がないのが日本語の感覚です。

そこに無理やり「個」を意識しようとすると、矛盾が生じます。

ないものを意識しようとすることは、曖昧さいい加減さのなかで考えることになってしまいます。


批判を恐れずに言えば、このあやふやな「個」という風潮に拍車をかけた歌があります。

ロングセラーであり、いまでも人気のある曲に「世界に一つだけの花」です。

好きな人もたくさんいるのではないでしょうか。


歌詞をじっくり見て欲しいと思います。

綺麗な言葉がたくさん並んでいます。

一種のメッセージソングとしても思われているかもしれません。

この曲を作った人も有名な人ですが、彼の曲としてはあまりにもあやふやな歌詞のオンパレードなのです。


本来メッセージ色の強い曲を得意としているのですが、ほかの曲に比べるとこの曲はあまりにもふわふわしていてあやふやな言葉で表現されているために、奇妙な方向に解釈がされている面があると思われます。

特別だとか一番だとかメッセージを強く押し出す表現の割には、言っていることがあやふやなのです。


ある種の社会現象まで引き起こした歌ですので、歌ったグループの影響力の大きさには改めて驚かされるところですが、それだけにあやふやな「個」を広げてしまっていることにもつながっているのではないでしょうか。

個性をほとんど持たない日本語感覚では、「家」を守ることによって自分の存在を確認してきました。

あやふやは「個」の感覚を持ち込んでしまった感覚は、明確な自分がないのに自分を守ることに目を向けてしまいました。

守るべき基準や価値を見いだせないことによって、自己矛盾を抱えていると思われます。


西欧型のメンタルケアやコーチングでは、自分を認めたり許したりすることが良く行なわれます。

しっかりとした「個」を持っている場合には上手くいくと思われますが、日本語の感覚においては自己矛盾を生んでしまうのです。

褒めるべき自分、認めるべき自分がいないのですから、実感を得ることができないのです。


滅私で奉公すべき対象が減ってきています。

滅私に対しての無条件の暗黙の感謝と報酬がなくなってきています。

滅私奉公が単なるバカを見る行為に変わってきてしまっているのです。


安心して滅私奉公できる対象が見つからないのです。

日本語の感覚には、安心して滅私奉公ができる対象が必要なのです。

少なくとも、滅私奉公に応えることができる環境を維持していきたいですね。