2015年6月29日月曜日

やらなくてもできる子の特徴

少し下火になりましたが、「やればできる子」がCMのテーマになりましたね。

特に、小学校の中学年以降に「やればできる子」と言われたり評価された人も多いのではないでしょうか。

簡単に言ってしまえば「やらない子」を婉曲的に表現したにすぎません。

それでも先生によっては、「やればできるじゃないか」と言って子供をその気にさせるのが上手かった人もいました。


私などは、ひねくれていましたので、やればできるのは当たり前でやらなくてもできるのが凄いことだと考えていました。

確かに学校の同じクラスには、明らかに学習らしいことはしているように見えなくても「できる子」がいました。

ひねくれ者としては、やらなくてもできる子を理想として、如何にしてやらなくてもいい点を取ることができないかと考えていました。


実際にコツコツとやることが大嫌いで、同じやらなくてはいけないことなら要領よく誰よりも早くパッとやってしまうことを目標として行動していました。

当然にように質や内容は伴ってきませんし、一旦やったことはそれで終わりですので、振り返ったり修正したりすることが大嫌いでした。

テストにしても教科書の範囲を決められた定期テスト的なものが嫌いで、予想の立たない一発勝負的なものの方が得意だったと思います。


成績はむしろ良い方だったと思います。

オール4の中に5がいくつか混ざっている程度だったと思います。

後から親に言われたことでは、周りからは一応「できる子」と思われていたようです。


その私から見ても、ほとんど学習らしいことをしていないのにやたらと成績のいい子がいました。

もちろん塾には行っていませんし、毎日わたし達と同じように遊びまわっていました。

どう考えても影で学習している様子はありませんでした。


「やらなくてもできる子」たちの共通点を見つけたのは小学校の6年生の後半になってからだと思います。

その時点ではすでに手遅れであることも実感としてわかってしまいました。


「やらなくてもできる子」たちは圧倒的に国語の成績が良いのです。

それも学校の成績というような限られた国語の範囲ではないのです。

とにかく国語についての知識が豊富なのです。


それが、時としては祖父母の言葉であったり古典の言葉であったり、回文や逆さ言葉などの言葉遊びの豊富さであったりなのです。

それぞれに得意分野はあったと思いますが、それは小学校国語の教科書に出てくる内容とは関係ないことばかりでした。


家に遊びに行くことも頻繁にありました。

「やらなくてもできる子」たちの周りにはほとんどの場合には祖父母が身近にいました。

同居をしていない場合であっても身近に祖父母がいて、頻繁に顔を見ていた記憶があります。


彼らの共通性は、新しい知識をすぐに身につけてしまうことにあります。

単なる暗記をしているのではないことが分かったのはかなり遅くなってからのことでした。

理解するための言葉や感覚が豊富だったのです。


教科書や先生の話に出てくる言葉をそのまま暗記しているのではなく、自分の持っている情報を総動員して理解しているのです。

言葉が豊富ですので、国語以外の教科書に出てくる表現を自分の感覚で理解していたのです。


9歳頃から12歳頃の、あらゆる能力が一気に開花するゴールデンエイジの時期には、学校で習った国語以外に理解する言葉や感覚を豊富に持っていたのです。

小学校に入ってから身につけた国語だけでは、それぞれの教科の独特の表現や感覚を理解することは難しかったのです。

そのためによく理解できないままにマル暗記をして覚えていくことに頼ることが起きていたのです。


理解することよりも暗記することは、「やればできる子」の「やれば」が暗記によって行われていたことになります。

したがって、暗記した通りの状況でない限りはその通りのことを思い出すことが出来なかったのです。

テストのほとんどは暗記した通りの状況を再現する問題の内容となっていますので、記憶だけで対応できるものでした。

また、それで点数が取れるのですから親も先生もそれで良しとして「できる子」という評価をしていたのです。


国語は小学校で身につけていく学習言語です。

「やらなくてもできる子」たちは、国語以外の日本語をたくさん持っていたのです。

それらの日本語やその感覚によって国語を身につけていたのです。


小学校の内容は、すべて国語によって知識やルールを身につけていくものとなっています。

しかし、中学年以降になって教科が増えていくと教科によってさまざまなニュアンスを持った表現が、同じ国語によってなされていきます。

記憶だけで対応できる範囲のものでもありますが、記憶には限界がありますし、何度も刷り込まないと一週間程度で薄れていったり消えていったりしてしまいます。

しかも、次から次へと新しい知識やルールを記憶していかなければなりません。


「やればできる子」は、覚えることを記憶することを中心に「やれば」をすることになります。

「やらなくてもできる子」は持っている言葉と感覚によって理解することを行なっていたのです。

そしてこのことは、あらゆる能力が一気に発達するゴールデンエイジによってあっという間に基本的な能力として身についてしまうのです。


覚えること記憶することもゴールデンエイジには大きく発展します。

しかし、おなじ発展する時期において、持っている言葉と感覚で理解する能力を高めた子供たちは、あらゆる教科に対しての対応力を付けていくことになります。

小学校の終わりごろになると、「できる子」の種類がはっきりと分かれてきます。


覚えること記憶することに頼った「できる子」たちは、好き嫌いによって覚えること記憶することの分野が偏ってきます。

得意分野は出来たとしても、嫌いな科目についてはだんだん点数が取れなくなっていきます。

それに対して、理解することの能力を高めた「できる子」たちは、新しく得た知識やルールを更なる武器として対応力を強めていくことになります。


ゴールデンエイジを迎える前の日本語力は、「やらなくてもできる子」のために必要な原動力です。

そこには、小学校に入ってから身につける国語力よりも、生まれてから身につけてきた母語の方がより大きな影響を持っているということができます。

「やればできる子」にするために、覚えたり記憶することに頼った学習を無理にさせていませんか?


ゴールデンエイジの時期に身につけることができた能力は一生ものであり、その人にとっての基本的な能力となります。

誰でもがその能力を開花させ一気に高めることになるこの時期の前に、どの様にこの時期を迎えるかを考えておくことが大切になります。

基本的な力としての日本語をしっかりと継承していきたいですね。