国語には二種類の重要な役割があります。
ひとつは、語彙や文法だけでなく数多くの表現や方言を持つ日本語の共通語としての役割です。
もうひとつは、あらゆる知的活動や社会活動の基本となる知識やルールを身につけるための学習言語としての役割です。
日本語の共通語としての役割は比較的わかり易いのではないかと思いますが、学習言語としての役割は共通語としての存在があるからこそ可能となっているものになります。
社会へ出ていくときに基本的なルールや知識は不可欠であり、これが身についていないと社会での適応が難しくなります。
そのための基本的な知識やルールを身につけるのが義務教育という位置付けではないでしょうか。
その義務教育における知識やルールを身につけるための共通学習言語が国語ということになります。
国語と間違われるのが標準語という位置付けです。
どちらも明確な定義がよく分からない言葉となっていますが、大雑把に言えば国語=標準語でも構わないと思います。
もうすこし精度を高めてみてみると、言葉としての国語は明治維新後に特に外国語との関係において盛んに使われ始めた言葉になります。
広い意味では日本語のそのものを言い換えた言葉であり明確な基準を持った内容はありませんでした。
国語がある種のルールに基づいた日本語の共通語としての役割を果たすようになったのは、明治も後半になって学校において国語科として教科書を含めた指導方針が確立してからのことになります。
そのとき国語科として目指したものが、標準語を選定し学校教育に反映させるというものでした。
標準語の基準としては、「文章ハ口語ヲ多クシ用語ハ主トシテ東京ノ中流社会二行ワルルモノヲ取リカクテ国語ノ標準ヲ知ラシメ其統一ヲ図ルヲ務ムルト共ニ・・・」と尋常小学校読本編纂趣意書で明記されています。
東京の中流社会で使われている国語(日本語)を標準語として選定するとしています。
明治33年には、それまで様々な教科として存在していた日本語関係の教科が「国語科」として統合されて、明治36年からは教科書が固定化されていきました。
教科として独立した国語は、現代では文化審議会国語分科会(旧国語審議会)や国立国語研究所などによって、当用/常用漢字の選定や現代仮名遣いの選定などを通じてルール化されたものとなっています。
国語という言語が具体的に存在するわけではありませんが、日本語のなかで標準語として定められたものが国語であり、「国語科」として学ぶべきものとなっていることになります。
同じ日本語の中でもより厳格な意味や使用法を規定されたものとなっているために、共通語としての役割を持った日本語となっています。
すべての教科の教科書が国語によって書かれています。
同じ日本語でも国語としての理解ができないと教科書の内容に対して理解が異なってしまうことになります。
特に注意しなければならないのが、日常的に使用している言語と同じ言語でありながらも国語としては意味や用法が異なる言葉です。
これを調整するために、国語としての用語や用法は頻繁に見直しが行われていますが、実社会の言葉の変化のスピードには追い付いていないのが現状です。
日常的に使われている意味とは違っていても、国語としての正しいとされる意味で解釈しないとならないのが国語の規定です。
用語や使い方を厳格に修正して身につけていくのが国語科ですが、他の教科では国語的な用法にはあまり目を向けられず既に分かっているものとして進められていきます。
ここで国語に対しいての理解ができていないと、ズレたままにその教科の理解をしていくことになってしまいます。
あらゆる教科を学習し知識として身に付けいていくためのツールが国語になります。
学習言語としての国語の役割です。
国語で理解し国語で表現しないと、理解したこととしての結果として試験で正解と認めてもらえないのです。
始めのうちは理解する言語としての国語だけで良かったものが、小学校中学年以降になると表現する言語についても国語としての規定を厳しく受けるようになります。
理解することは自分のわかっている普段の言葉でも可能ですが、表現はそうはいきません。
自分勝手な言葉で表現したのでは国語としての表現としては正しくないものとなってしまいます。
人としての本当に必要な基本的な知識と社会生活のための基本的なルールを身につけるのが義務教育です。
それは全て国語によって身につけなければならないのです。
しかも、そのための国語を身につける期間はあっという間に過ぎてしまいます。
過ぎてしまった国語の内容は、当たり前のこととしてさらに先に進んでいきます。
社会に出るまでに個人を評価する基準となってしまう学業成績の基本がここにあります。
教科によるニュアンスや感覚の違いもすべて国語の表現によって行なわれていることです。
先生は、それぞれの分野の専門家かもしれませんが、教わる方は芸術や保健体育から歴史や生物、数学や物理などあらゆるニュアンスの異なった国語の中に晒されて理解していかなければならないのです。
しかもすべて成績という評価によって判断されてしまうのです。
理解度を確認することは大切だと思いますが、それを学業成績として評価するのは果たして本当に必要なことなのでしょうか。
選抜や足切りの方法としてならば、もっと良い方法があるのではないでしょうか。
成績や順位をつけることではなく、共通語としての国語を理解できるようにし表現として使えるようにすることが目的のはずです。
少なくとも社会で生きていくための知識やルールは、身につかなかったからといって低い評価をして済むようなことではないはずです。
それを身につけるための義務教育ではないでしょうか。
国語の役割がますます大きくなっていくのではないかと思います。
その割には、あまり時間をかけずに当たり前のようにさらっと流れていく国語教育は多少心配なところではあります。
小学国語の影響力の大きさを改めて考えさせられますね。