2015年6月1日月曜日

見える、日本語の感覚

言語の持っている基本的な構図が、思考の傾向を表していることが見えてきました。

言語の基本的な構造を一番鮮明に表しているものが語順になります。

語順は、その言語によって行われる思考の流れを表しているものと言えます。

したがって、語順を図示することによって思考の過程を明確に目で確認できるのではないでしょうか。


語順は、それぞれの言語の文法によって定められた規則に従ったものとなっています。

文法を無視してしまえば、文自体が意味を伝えることができなくなってしまいます。

文法に定められた中で、どのような語順になっているのかを見ることによって、言語による思考の傾向を確認することができることになります。


では、構図はどのように見たらよいのでしょうか。

構図の中心となるものは、主語、述語、修飾語の三つになります。

構図にするときに一番扱いが難しいものが修飾語になります。


特に日本語においては、文末に述語がありさえすればその他の要素の語順ついてはかなりの自由度があります。

さらには、主語を代表として省略される場合が少なくありません。

日本語話者同士では理解できても、他の言語話者にとっては主語が省力されることは大変戸惑うことになります。


日本語話者同士にとってもそれ以上に理解が難しいものが、修飾語の関係です。

修飾される語の前にありさえすれば、どんなに離れていても修飾することが可能であるのが日本語の修飾関係です。

修飾語は一般的にはすぐ後の要素を修飾することが多いのですが、修飾する要素が多くなってくると離れた要素を修飾することが起きてきます。


さらには、修飾される要素も複数登場してくると、修飾関係を感覚だけで判断することも難しくなってきます。

一文の中の修飾関係を確認しながらも、前後の文脈を理解して修飾関係を判断しなければなりません。


日本語は、修飾する要素の後に位置して修飾することは出来ない文法になっていますので、述語の前には修飾する要素と修飾される要素が並ぶことになります。

前にある要素が後にある要素を修飾することになりますので、文の初めの方にある修飾する要素はそれ以降にある修飾される要素のどれでも修飾できることになります。


この修飾の関係を機械的に判断することは不可能です。

登場してくる要素の修飾関係の中から、いちばん「ふさわしい」ものを選択することになります。

ルールとしての判断基準はありませんので、「ふさわしい」ものとしか言いようがありません。


理解のしやすさから見てみると、修飾される要素の直前にある修飾する要素がいちばん強い関係にあると感じられますが、必ずしもいつもそうなるとは限りません。

悪文の例として挙げた「黒い目のきれいな女の子」だけでも8通りの修飾関係が存在し、そのすべてが意味としては異なっているのです。
(参照:悪文から学ぶ

この例にしても、決して特殊な文(節)ではありません。
特に話し言葉においてはよく使われていると言えるほうかもしれません。


英語のように、重要な要素から順番に登場してくる構図とは大きく異なったものとなっています。

理解するのに必要な重要な要素から順番に流れているのが英語の構図です。

修飾語は主題となる文の後半に、前置詞や関係代名詞などによって追加情報として登場してきます。

メインの文にも修飾語が出てくることもありますが、その修飾関係は単純明快でありしかも理解するのに重要な要素しか出てきません。


日本語は、登場する修飾の要素の重要度の判断ができない構図になっています。

全ての要素が平等に並列的に登場してきます。

その関係を決めるのは最後に登場してくる修飾される要素であり述語になります。

それでも判断できない場合には、前後の文脈の理解に頼ることになります。


その結果、英語話者に比べると複数の要素を重要度のつかないままキープしていることに対して慣れています。

結論の出ないまま複数の要素を持ち続けていることが決して不快ではないのです。

むしろ、結論の出ない複数の要素を持ちながら活動している状態が普通の状態なのです。


さらに、最後の結論の表現に対して断定表現をすることが苦手となっているために、どうしても相手に判断をゆだねる部分が残ります。

「と思います」「ではないでしょうか」「と言えると思われます」「間違いのないようです」などは、使用している方としてはほとんど断定と思っているのではないでしょうか。

それでも、言語のニュアンスとしては相手に相談している余地を残していることになります。


これらのことを考えると、日本語でおこなう思考には多くの候補を同時に扱うことが得意であると言えると思われます。

その裏返しとして、結論を持って一つの道筋を明確に思考することが苦手であるともいえます。

優先順位をつけることが苦手であるということもできるかもしれません。


思考においてよく使われる言葉としては、拡散思考は得意ですが集約思考は苦手ということができるかもしれません。

英語で行なわれる議論と日本語で行なわれる議論では、同じテーマで行っても時間も結論も違ってしまうことは当たり前のような気がします。


言語の構図から思考の傾向が見ることができると思います。

これをはっきりとするためには、書いてみることが一番です。

そして要素同士の関係を明確にすることで、曖昧さを回避することも可能ではないでしょうか。

特に、日本語には言語そのものに独特の傾向があることを知っておくことが大切ではないでしょうか。