2015年5月31日日曜日

読んで理解するということ

日本語の文の構図は、述語(結論)が最後に来ることと数多くの修飾語が存在するものとなります。

同じ分であっても修飾語の関係を読み間違えると違う意味になってしまいます。

このあたりのことについては、悪文の例を見て検討してきました。
(参照:黒いのは、目、女、子?


一つの文を見ているだけでは、どの意味として理解したらいいのかわかりません。

修飾語の語順や句読点によって読みやすさは作ることは出来ますが、修飾語を減らさない限り複数の意味にとれることになることに変わりはありません。

複数の意味にとれる場合には、対象となる一文だけでは正しく理解できないことになります。


文章を読んでいるときに、そのような複数の意味にとることができる文に出会った場合には、前後の文の内容を参考に推測することになります。

そこで理解すべき内容が確定されるまでの間は、いくつかある意味としての候補をキープしておかなければいけません。

そこまで読み進めてきた内容と照らし合わせて、一番ふさわしい内容を選択することになります。

それでも選択すべき内容が定まらない場合には、対象文の後の内容までもを見ることによってそのつながりから判断することも行なわれます。


英語のように頭から順番に重要な要素が登場してきて、文の前半で必要なことがほとんどわかってしまう構造にはなっていません。

いくつかの理解するための候補を持ちながら、読み進めていることになります。

とても器用なことをやっていることになります。

一種の特殊能力とも言えるのではないでしょうか。


悪文に出会うと、前後の文やそこまでの理解だけではどう解釈したらよいのか確定できない場合があります。

この状態に何度も出会うと、その文章を読む気がなくなります。

まさしく、何を言っているのか分からなくなってくるからです。


複数の意味に解釈できて、前後の文脈からもその意味を確定できない分を悪文と呼ぶとしたら、有名な文学作品の中にもいくつも登場してます。

作者によっては、わざとどちらに解釈してもらってもいいように、表現技術の一つとして使用して場合もあるようですが、それでも分かりにくいことに変わりはありません。

外国語に翻訳されたときに、翻訳者によっては主語が変わってしまっていることは決して珍しいことではありません。


日本語としての読み方の癖がついてしまっていると、英語の長文の読解が苦手になります。

英語の場合は大切な要素が初めから登場しますが、修飾したい内容は前置詞や関係代名詞によって文の後半におかれます。

更に修飾したいような場合は、カンマやコロンなどによって、文の後に登場してくることになります。


重要な要素が初めから出てくることが分かっていないと日本語の感覚で読んでしまうので、修飾関係が分からなくなってしまうことがことります。

英文を日本文に訳しながら読んでしまうと、修飾する語を前に持ってきますので、大切な要素である前半部に対して注意がおろそかになってしまうのです。

結果として、修飾語(節)ばかりに注意が言ってしまい、文の主題を読み落とすことがおきてしまいます。


結論を先に書けとよく言われました。

短い時間で伝えるためにはとても大切なことです。


では、ある程度の長さを持った文章や章立てされた書物などではどうでしょうか。

もちろん初めに結論があることは大切ですが、日本語の読み方では最後に至るまでに要素を並列的にキープすることに慣れてしまっています。

最初に結論を持ってきてしまうと、後から出てくる他の要素と同じような重要度でキープされてしまうことが起こるのです。

したがって、あらためて最後にもう一度結論を繰り返して重要度を上げる必要が出てくるのです。


日本語の読み方は、登場する要素を並列的にキープしながら最後に重要度や関係性を確認するという作業を行なっていることになります。

話しを最後まで聞け、ということは特に日本語においては絶対的な条件になるのです。

最後の一言で意味が正反対になってしまったりするからです。


読むときも聞くときと同様に、次に展開される内容をある程度予測しながら進めていっています。

そのためのキーワードが語尾の変化であったり、接続詞であったりします。

予測通りに内容が展開していくことは、とても理解しやすいことになりますが刺激がありません。


読み手に予想通りの展開は、作者の個性がなくなったものとなったしまいます。

読み手の予測を裏切ることによって、作者の個性が際立つことになります。

目的や内容によっては、予想を裏切ることが向かない場合もあります。


文学作品などは、読者の予想を裏切ることがないと成り立たないものではないでしょうか。

そんな時に、悪文に出会ってしまうと分かりにくさを招いてしまいます。

予想を裏切って展開するときほど、一気に引き込んでしまいたいものです。

並列的にキープする要素をできるだけ減らしながら、早めの結論で進めていくことがリズムを生むことでもあります。


リズムがある文章は、読みやすいだけではなく理解しやすいものとなります。

要素をキープする間と結論が出る間が、ほど良く調和していることになるからです。

長編ものほど、このリズムが大切になりますね。


他の言語に比べた時には日本語は読解することがとても難しい言語となっています。

義務教育においては徹底して読解力を中心に習得にして来るのに、それでも読み方が難しいのが日本語です。


長編であっても最後待読み切って初めて全体の理解ができるのが日本語です。

英語の長辺は最後まで読まなくとも十分に理解できます。

このあたりのことも、日本語は長編に向かないと言われる理由かもしれません。


いくつもの要素を同等にキープしながらいる状態は、決して不快ではないのが日本語の感覚になります。

かなり難しいことをやっているのですね。

上手くいかしていきたいですね。