2015年6月19日金曜日

目標志向と状況対応

いかに真似ようとしても言語の持っている感覚が根本的に異なる以上は、完全なる模倣は不可能となります。

完全なる模倣をしたとしても時間とともに言語の持っている感覚の方に引き寄せられていくことになります。

それが言語による感覚であり、その言語を使用するものにとっては自然なことであるにもかかわらずに、手本とした目標志向型と次第に異なっていくことに対して戻そうとする力が必ず働きます。


何かを成し遂げるアプローチや社会を構成する論理について目標志向型でしか教育を受けてきていないからです。

目標志向型のアプローチをとって成し遂げていくことがふさわしい社会を作ってきているのです。


政党についても同じことが言えると思われます。

目標志向型の社会や政治制度の中では二大政党が政権を競い合い、国民に対してもYes/Noによる選択をしやすいようになっています。

日本においては二大政党を目指した経験はあるものの、定着はしませんでした。

マニュフェストについても明確な理想や目的を掲げてそこに対してのアプローチを表明することよりも、現実的な問題をどう処理していくのかの方に国民の目が行ってしまいます。


民主主義における最高の議決手段としての多数決は、目標志向型にとっては多数派工作のための場となっており力を持って過半数を制することが中心となります。

状況対応型としては、もう一つの民主主義の精神である、少数意見の尊重の方に重きが置かれることになります。

いわゆる状況対応するために大切な当事者においては、どれだけ少数であってもきちんと把握することからしかはじまらないからです。


しかし、実際の場面ではほとんどのことが目標志向型によって運用されており、目標志向型で物事を処理していくことが王道であり正しい方法だと教え込まれてきています。

最近では、いろんな場面で状況対応型が垣間見えることがことがありますが、目標志向型からの視点で見ると優柔不断さや曖昧さ軟弱さと映ってしまいます。

ほとんどの場合には取り上げられるものとはなっていません。


この目標志向型の社会の見本は欧米型社会であり、彼らが築き上げてきた民主主義です。

彼らの持っている言語は目標指向型です。

その言語によって作られてきた社会だから目標志向型であるともいえるのです。


日本語はその成り立ちや用法・構造などどれを見ても状況対応型の言語であるということができます。

現在の日本が運用している社会は、日本が作り上げたものではありません。

欧米型の先進文化圏より取り込んで、常に彼らを意識して修正を加えられてきているものです。


言語の持っている感覚としての型と運用している社会の型が同じ場合には、矛盾を感じることもなくストレスを感じることもなく運用されていくことが可能です。

しかし、人としての本質にかかわる言語の型と運用している社会の型とが正反対である場合にはどんなことが起こるのでしょうか。

上っ面で実社会の運用を優先しているうちには感じなかったいろいろなことが、徐々に矛盾やストレスとして表面化してくることになります。


それは制度としての矛盾のこともあれば、つじつまが合わないという現象にも出てきます。

それでも、その原因としての言語の感覚の違いに気がつけば修正や補正はいくらでも可能ですが、目標志向型以外の教育を受けてきていない現状では自分の能力が足りないと感じることになってしまいます。

もっと広く状況対応型というものを知る必要があるのではないでしょうか。


これこそが日本語の持っている感覚そのものだからです。

他の言語にはない日本語の独特の感覚だからです。

先進国の言語の感覚にはなく、開発途上国の原住民の言語に近い感覚を持っている言語となっているのです。


世界のスタンダードは目標志向型です。

その典型が英語です。

英語は今や世界の公用語・共通語としての地位を確固たるものとしています。


日本語は世界においては全く通用しない言語です。

言語だけではなく、日本語の持っている感覚そのものが世界からほとんど理解されることがないのです。

彼から受ける批判の内容を見てみればすぐにわかります。

そこには、曖昧さや論理性の弱さ、説得力のなさや意志の弱さなどが羅列されてきます。


状況対応型からみた目標志向型は、強引さや足元の不安定さ固定概念の強さや協調性のなさと映ることと同じことなのですが、彼らの社会には言語にも社会の構造にも状況対応型の要素がほとんどないのです。

だから気にならないのです。

先進文化圏に属しながらも、しかも自分たちの文化を真似し続けてきたにもかかわらず、時々発現する日本語としての状況対応型の姿勢は理解できないものとなっているのです。

不思議なものとして映ってしまいます。


日本語をメインに使用している者が世界に出ていくときは、英語が必要になります。

道具としての英語を使うことによって、思考の原点は日本語であったとしても表現された英語においては目標志向型の表現となっていくのです。

また、英語は構造的に状況対応型の表現はとても難しくなっています。


出来ないことはないと思いますが、英語としては何を言っているのかわかりにくいものとなってしまいます。

どの様な目的を持って英語を学ぼうとするのかはとても大事なことになります。

目的によっては学び方が大きく違ってしまうからです。


はっきりとした目的を持って英語を学ぼうとしてベストの手段を選択していくのが目標志向型です。

何となく英語を身につけないといけないと思って、身近なところから取り掛かるのが状況対応型になります。

同じ現象に対してもどのようにとらえるかが違ってきてしまいます。


もっと具体的に対比ができるといいと思いますが、いい例が見つあっていないのが現状です。

常に意識していますので、どこかで見つかるでしょう。

そのときには、またお知ららせしたいと思います。