2015年6月18日木曜日

日本語にとっての明治維新

日本語における一番大きな変化点を挙げるとしたら明治維新ではないでしょうか。

漢語の導入利用によって独自の言語を作り上げた日本語は、明治維新までは他の文化による影響をほとんど受けることなく醸成されていきました。

明治維新とは世界を意識し世界の文化に触れることで、自分たちの力のなさを知った瞬間だったのではないでしょうか。


そのまま独自の醸成を続けていたのでは、植民地化戦略によって覇権を競い合う列強の草刈り場となることは、中国をはじめとしていたるところで実例を見ることができました。

ヨーロッパ列強と対抗できるだけの力を付けることが急務になりました。

それまでは、ほとんど大きな変化のない国内の状況にだけ対応していればよかった環境から、一気に列強の持つあらゆる力に対抗できるようにならなければならなくなったのです。


こんなやり方や方法には慣れていなかった日本は、あらゆる分野の模倣から始めました。

新しい技術や概念を説明するための言葉が足りません。

日本語に翻訳しようにも、日本語では持っていない技術や考え方なのです。

あらゆる言葉が動員されました。

一番多く動員されたのが仏教用語でした。


仏教の中での専門用語であった言葉が、新しい意味を持たされたり転用されたりしながら使われていきました。

それでも言葉が足りません。

あらゆる分野で新しい言葉がどんどん生まれていきました。

その数は、広辞苑一冊にも相当する20万語を越えていたと言われています。


また、そこでは国語を英語にしてしまった方がいいのではないかということが真剣に検討されました。

福沢諭吉はその急先鋒であったと言われています。

文部省としても本気で英語の国語化を実施しようとした記録がたくさん残っているようです。


英語による国語科を止めたのが、その当時に文部省に顧問として招聘していた英国人であったと言われています。

日本としての伝統を断ち切ることになると指摘したその感性には、頭の下がる思いがあります。

日本語を日本語として守ったのが外国人であったという、いかにも日本らしい出来事ではないでしょうか。


明治以前の日本語の基本は、状況対応型の言語であると言えると思います。

文の構成や持っている語彙などからも明らかではないでしょうか。

英語を初めとするラテン語から成り立ってきた言語は、対照的ともいえる目標指向型の言語となっています。


目標指向型の言語の国は、目標指向型の技術によって目標指向型の社会を作ってきました。

力でもって競争を勝ち抜くための国家社会を作っていくのに、効率の良いのが目標指向型でした。

言語の持っている性格と社会構造が持っている性格が一致していたことになります。

あるいは、目標指向型の言語を持った文化だったことによって目標指向型の社会が出来上がって言ったのかもしれません。


列強に追いつくためには目標指向型を社会を作り上げることしか方法がありませんでした。

状況対応型の言語である日本語では目標指向型の社会を作るには不向きになります。

英語という国語を選択しなかった限りにおいては、日本語を少しでも目標指向型に近づけていかないと精神文化と実社会との間に矛盾が生まれていきます。

そのために明治期に作られた言葉たちは、日本語でありながらも目標指向型の感覚が強い傾向があります。


明治以降およそ150年というものは、目標指向型の社会を築き上げるための努力をし続けていると言えます。

教育や国家運営や経済といったもののすべてが目標指向型で構築されてきているのです。

ところがこれらの知的活動の基盤となる言語自体は状況対応型なのです。

新しい言葉としての目標指向型の感覚を持った言葉は創り出してきていますし、外来語をそのまま取り込んでいることもたくさんあります。

しかし、日本語として取り込んでいる以上は基本的な性格は状況対応型なのです。


言語はあらゆる精神文化や思考のもととなっており、人の感覚そのものとなっています。

感覚と異なる実社会は矛盾を抱える状態となり、ストレスそのものとなります。

その無理が、少しずつ表面化してきていると思われます。


日本語は世界の言語から見たら本当に特殊な言語です。

しかし、日本にいて日本語を使っている私たちにとっては、その特殊さが分からないのです。

言語は精神文化のみならず感覚感性を作っているそのものではないでしょうか。


今や日本の社会環境は欧米型とほとんど変わりがないものとなっていると言えるでしょう。

なぜ、日本の社会人が他の国に比べて圧倒的にストレスを抱えている人が多くうつ病が多いのでしょうか。

それは言語の持っている性格と実社会の持っている性格が異なるために、そこで活動している者にとってはどこかで無理に折り合いを付けているからではないでしょうか。


日本語が持っている自然な感覚では、「と思われます」「ではないでしょうか」「ということができそうです」「してもよさそうです」などがあります。

それを無理やりに、「ねばならない」「~までに」「べきである」に収めようとすることが矛盾を持ってしまうのではないでしょうか。


明治以降、日本語はとても大きなものとなりました。

新しい言葉がたくさんできましたが、そのほとんどは名詞です。

その名詞の新しい使い方として出来たものもありますが、基本的な言葉の使い方は変わってはいません。

目標指向型の名詞がたくさん増えたと言うことができます。

基本的な動作を表す動詞や感情を表す形容詞などはほとんど変わっていないのです。

ましてや表現する構図はほとんど変わっていないのです。


基本的な性格としては状況対応型でありながらも、目標指向型的な表現も可能な言語となっているのではないでしょうか。

本質はあくまでも状況対応型です。

国会中継を見ていたりすると、不毛な目標指向型の言葉の乱舞に嫌気がしてきます。

無理に折り合いをつけることなく、感覚的に「?」や違和感を感じることに自然に従ってもいいのではないでしょうか。


あまりにも世界の他の言語と異なる性格を持つ日本語については、まだまだいろんなことを知る必要がありますね。

いろんな切り口からの日本語をもっとたくさん見てみたいものです。