「開店」とは読んで字のごとく、店を開く(オープンする)ことです。
名詞以外の何物でもありません。
では、パチンコ屋の看板等でよく見かける「本日開店」で使われている「開店」は名詞でしょうか。
形の上では明らかに名詞だと思われますが、この「開店」は開店する(します)ということではないでしょうか。
する(します)がなくとも動詞としての感覚を持っている言葉になっていませんか。
これはどこから来ている感覚なのでしょうか。
「開店」という言葉は「店を開く」という行動を短縮した言葉です。
いわゆる漢語としての読み方をすれば、読み方の「かいてん」だけで店を開く行動を表す動詞と目的語持った主語のない文になっていることになります。
ところが、漢字で「開店」と書いてしまうことによって、日本語としては「店を開くこと」としての名詞となってしまっているのです。
したがって、そのことをするという「開店する」という”名詞+する”の動詞が作られることを妨げなくなっているのです。
「店を開くことをする」というややこしい日本語になっているのですが、「開店」という言葉が行動を表す言葉から「店が開いている」状態を表す言葉しての使われ方が多くなってきたことによって違和感がなくなってきたと思われます。
「開店」そのものが「店を開く」という行動から、「店が開いている」という状態を表すことの方が多くなってきたということではないでしょうか。
開店と開店中といった方がわかり易いかもしれませんね。
漢語から見れば、「開店」だけで「店を開く」ですので、「開店する」は動詞が二重にあることになります。
昔から言われる、「頭痛が痛い」「落雷が落ちた」は明らかにおかしいのですが、「頭痛(が)する」「落雷する」はおかしく感じないのと同じことです。
日本語はあらゆるものが主語になることができます。
先ほどの、「開店」を「店を開く」と読めば主語がないことになりますが、「店が開く」と読めば店が主語になり述語を伴った立派な文になります。
「店が開く」となれば主語が人ではないために行動という感覚がかなり薄くなり、状態を表している感覚の方が強くなります。
そうなると「開店」に対して「店が開いている」状態の名詞としての感覚が強くなるのではないでしょうか。
誰かが「店を開く」という行動としての動詞的な感覚とはかなり異なった感覚と言えるでしょう。
「頭痛」は「頭が痛い」状態です。
日本語は頭が主語になっても違和感がありません。
実際は頭が痛さを感じるわけもなく、人が頭において痛さを感じていることでしかありません。
英語では、頭が主語になることはあり得ませんので、「私は頭の痛みを感じています(持っています)」としか表現できません。
誰がその状態にあるのかが極めて明確になっています。
日本語で「頭を痛くする」はかなり無理のある表現であり違和感があります。
したがって「頭痛」には動詞的な感覚がほとんどなく、「頭痛」という状態にあるという名詞的な感覚が強いことになります。
開店にも使われている「オープン」はほとんど日本語化している英語です。
英語としてのオープンには名詞としての使い方はありません。
例外としてあるのは、The Open(全英オープンゴルフ)のようなオープントーナメントを表すような言葉くらいではないでしょうか。
日本人としてはこちらのオープンの方が馴染みがあるのかもしれませんね。
したがって「オープンする」というのは二重動詞になることになりますが、日本語の「オープン」には動詞的な感覚はほとんどないために違和感なく使われていることになります。
日本語の「オープン」には英語で言うところのオープンがされている状態を表す名詞としての感覚だと言えます。
漢字の熟語はカタカナとして取り込んでいる外国語や外来語と同じように扱うとわかり易いものとなります。
特に音読みの熟語については漢語の影響が色濃く残っていますので、「開店」における動詞的な感覚のようなものが数多く存在します。
「店を開く」のか「店が開く」のかで、感覚が違ってくるようなものがあるのです。
これらを回避するためには、ひらがなで表現することが最も効果があります。
さらに、意味をわかり易くしたければ訓読み漢字を使用することです。
見た目では正確さを伴っているように見える漢字であっても、感覚的にとらえていくと微妙なニュアンスがいくつか含まれているものがたくさんあります。
ひらがなと訓読み漢字で言い換えてみることは、日本語にとってとても大切なことではないでしょうか。