広い意味で世界の共通語と言えば英語と言うことになるでしょう。
世界の言語と言う観点から見ると、日本語は共通語からかけ離れた原住民の言語ということができます。
英語を共通語とした方言よりも、さらにはるか遠くに位置するものと言うことができます。
人の活動や情報の伝達が、国境という目に見えない壁を簡単に越えるようになった現代では、ますます世界の共通語としての英語の立場が確固たるものとなってきました。
日本語の母語話者とは言え、日本語だけで生涯を過ごすことはほとんど不可能に近い環境であるということができると思います。
そのためには、使いこなすことは出来なくとも、少なくとも日本語との差異という点における英語に対する知識は身につけておく必要があります。
それらの環境を踏まえて、小学校における英語の授業の拡大が図られていると思われますが、このことが日本語の習得を阻害している可能性もあることも指摘されているところです。
世界の共通語としての英語とその英語とほとんど共通点を持たない一原住民の言語である日本語という関係を意識しておかないと、単なる英語倒れに終わってしまうことになりかねません。
我々日本人が母語として英語を持つことはほとんど不可能です。
母語として英語を持つためには、幼児期の生活環境から日本語を排除し英語での幼児期生活を送らなければならないからです。
日本語を母語として持つ家族からは隔離された生活が必要になります。
現実的には不可能なことです。
したがって、母語としては日本語を選択せざるを得ないことになります。
母語は、人の知的活動のすべてを支配する言語になります。
(参照:母語によって作られる基本機能 ほか)
したがって、人の知的活動の質はその人が持っている母語によって左右されることになります。
第二言語を理解するのも第二言語を使いこなすのも、母語の能力によって行われていることになります。
したがって、第二言語の質を高く身につけたいのであれば、母語である日本語の質を高く持っていなければ難しいこととなります。
このことを的確に指摘されたのが木下是雄先生です。
今から30年以上前に「理科系の作文技術」を書かれた先生です。
理科系の学生の最終課題は英語による論文の作成と発表です。
英語で発表しなければを評価を得ることができないのです。
木下先生は毎年のように学生を指導してきたわけですが、本来の目的である研究の内容よりも英語による論文の書き方についての指導の方に忙殺される日々が続いていたそうです。
毎年同じような指導を続けるうちに、「英語論文の書き方」を本にして、学生たちに読ませようと思われました。
その目的で、学生たちを観察していたところで気づいて書かれたのが「理科系の作文技術」です。
学生たちは英語ができないんではなく、日本語ができないことに気づかれたそうです。
母語としての日本語での表現ができない者が、他の言語表現ができるわけがないのです。
いくら定型があるとは言っても、元の日本語が作文になっていなければ問題外なのです。
日本語の作文の技術について書かれた本なのに、横書きで書かれているのは理科系と言う分野を考えてのことだと思われます。
理科系の教科に縦書きの分野はありません。
英語も当然横書きです。
英語の論文にすることを見越して書かれていますので論理性が重視されているので、小説や随筆などと比較すると面白く読むことができます。
日本語と英語は言語としての性格を大きく異なるものの典型ともいうことができます。
したがって、著しく誤解を招くものでない限りは表現的には許容されると思っていいようです。
それでなくとも英語には非常に多くのバリエーションがあります。
アメリカ英語、イギリス英語、カナダ英語、オーストラリア英語、などは英語としての方言以上の差があるものとなっていると言えるでしょう。
ピジン言語というものがあります。
現地人と彼らの言語ではない外国語を話す者との間で異言語間の意思疎通を図るために使われるようになる言語のことです。
現地人の言語が基本になりますので、外国語話者の方が少しでも現地人と意思の疎通ができるような言語に変化させていくことになります。
英語は世界の共通語となっていますので、他の言語から英語話者への意思の疎通を図っていく言語のことをピジン英語と呼んだりします。
具体的な言語が存在するわけではありません。
もととなる言語も様々です。
常に揺れ動き、人によって疎通できる内容も異なっている状態にある言語のことになります。
これが双方から見てある程度安定した言語になった場合にクレオールと呼ばれる状態になります。
日本語を母語として持つ者が英語を身につけようとする場合の第一目標は、英語話者との意思の疎通です。
どうしても意思を疎通しなければならない相手は、限られた対象になるはずです。
その人たちだけと意思が通じ合えればいいのですから、きちんとした英語である必要もないのです。
相手も理解使用してくれようとしますので、更にきちんとした英語である必要がなくなります。
個人の持っている日本語をベースにしたピジン英語で十分役に立つことになります。
そのためには、しっかりとして日本語ができていることが前提条件になります。
特に英語の場合は、日本語話者よりも論理性に大きな関心があります。
普段の日本語のつもりで話していると、彼らには分かりにくいものとなってしまうのです。
日本語では簡潔過ぎるくらいの論理の展開でちょうどいいのです。
ピジン英語は使う人によって、対象によってまったく異なったものとなります。
それでも意思の疎通が目的ですので全く問題ないのです。
どの言語であっても、相手と環境と目的によって言語を使い分けするのは当たり前のことです。
日本語は個の使い分けがあまりに細かくたくさんある言語となっています。
日本語で「ふさわしい」表現ができれば必ず英語に置き換えができるものとなります。
母語としての日本語を磨くことが、他の言語を身につける最短距離となっているようですね。
必要に迫られた意思疎通のために言語を発して、理解しなければならない状況に追い込まれれば自然に行なうことです。
趣味や知識としての英語はあまり意味のあることにはなりそうもないですね。