2015年5月25日月曜日

書くことでわかる、自分の日本語感覚

書くことによって自分の日本語がよく見えてくるようになります。

書くという行為そのものよりも、書いたものを見直したときに確認することができると考えたほうが良いと思います。

人の書いた文章を読むのと同じような客観性を持って見ることができるからにほかなりません。


話し言葉の場合にはその場で消えてしまいますので、録音でもしていなければ後で確認することは基本的にはできません。

自分で話した言葉や内容を、後で客観的に見直す機会は多いとは言えないでしょう。

その点、文章はいつでも見青すことができるものです。

また、ある種の思いを持って一気に書き上げた文章に対しても、しばらく時間が経つことによって客観的に見ることが可能となります。


書くことは知的活動の中でも表現活動にあたります。

それは、絵画や彫刻、音楽などの芸術活動と同じ表現活動になります。


芸術活動の始まりはほとんどの場合は「あそび」から始まるものです。

好きや面白いが動機であったことが、ある種の評価を得ることによってその作品の質を期待されるようになります。

その期待に応えようとすることが強くなると、それまでのような活動ができなくなることがあります。

それは、対象とする相手が限定されてきて、その相手に対して提供すべき質が見えてくることによるプレッシャーにあると思われます。


それまでは自分の好きな感覚だけで結果を考えすに行っていた活動に対して、期待してくれる相手を納得される結果を提供しなければならない厳しさということができます。

書くことにおいても同じことが言えます。

勝手に好きなことを書いているときは、何のプレッシャーもなくできていたことが、特定の枠をはめられた時には越えるべきハードルができてしまいます。

しかもほとんどの場合には、このハードルは具体的なものとして設定されるわけではありません。

見えないハードルに対してどのレベルでクリアすればいいのかが分からなくなります。


そのために、ひな形や定型文などが用意されることになります。

日本語のばあには絶対的な定型表現というものが存在しません、それぞれの場面や目的に応じて「ふさわしい」表現をするために言葉を選ぶことになります。

それぞれの場面で「ふさわしい」を思う感覚が、一人ひとりの持っている日本語の感覚だと言えます。

ほとんどの人がおなじように「ふさわしい」と感じる表現もあれば、自分だけが「ふさわしい」と感じるものもあると思われます。

この「ふさわしさ」の基準となるものを見つけてみたいと思います。


一番最初に考えられるのが伝えるべき対象である相手です。

相手との関係は「ふさわしさ」を決める大きな要素だと思われます。

相手との関係における大きな要素は、親疎関係と上下関係の二つだと思われます。

日本語のむずかしさの一つに敬語の使い方が挙げられます。

こういう条件のもとではこの敬語を使うという絶対的な基準がないから難しいのです。

親疎関係(親しさの度合い)と上下関係によって「ふさわしい」ものを選ぶ必要があるのです。

しかも、この関係は固定的なものではなく変化していくものです。

それぞれの度合いによって「ふさわしい」ものが変わってくるのです。


書くときには相手を設定しろと言われますが、それはこの関係を明らかにしろということなのです。

この関係を明らかにすることによって、表現としての「ふさわしさ」が判断できるようになるからです。

人についての属性が、日本語のの表現を決める大きな要素になります。


つぎに「ふさわしさ」を決める要素は、環境の設定です。

どういう場面を設定して書いているのかが大切になります。

これも敬語の使い方にも影響してきます。

どんなに身近で同等の関係にある人が相手でも、その場が公式な議論の場であれば「ふさわしい」表現がおのずから決まってくるのではないでしょうか。

特に会話を表現しようとするときには注意が必要になります。


専門家を相手に書く場合においても、書く環境が週刊雑誌である場合と専門誌である場合とでは変わってくることになります。

次の項目にも関係してくると思いますが、論文を書く場合と小説を書く場合では「ふさわしさ」に大きな違いがあることになります。


もう一つの大きな要素は、何について書くのかというテーマにになります。

欲張った大きなテーマを持ってしまうと、小さなテーマがたくさん出てくることになります。

テーマごとに「ふさわしさ」が変わってくることが考えられます。

どこまでテーマを、どれだだけの文字数で伝えようとするのかによって、かなりの表現の違いが出てくることになります。


さらには、読者にどうしてほしいのかという目的があげられます。

事実として報告したいのか、意見として伝えたいのか、説得して行動してほしいのかによって「ふさわしさ」が変わってきます。


「ふさわしさ」が出てくるのは選択する言葉だけではありません。

語尾の終わり方や、修飾語の置き方、文字の種類、文の長さなど、いろいろな要素があります。

どういう条件の時はどういう表現をしますとは決めることができないと思います。


絶対校でなければいけないという「ふさわしさ」も、また少ないのではないでしょうか。

あきらかにおかしいと思われる「ふさわしさ」さえ避けることができれば、感覚としては十分ではないでしょうか。


どこまで明確に設定されているかは別にして、相手と目的のない文を書くことはないと思います。

芸術作品の一部では、作者の思いだけで相手を特に設定していない場合もあると思われるかもしれません。

しかし、作品として発表する以上は、漠然としていても相手を設定していることになります。

自分のためだけに作った習作のようなもの以外は、基本的には誰かに何かを伝えるためのものであると思っていいのではないでしょうか。


「ふさわしさ」を確認するためにも、自分で書いたものを読み返してみることはとてもいい練習になります。

人の書いた文章もそんな目で見ることによって、自分の日本語を磨くことができますね。