曖昧さとは、理解のしにくさに他ならない。
言語は本来、共通理解のためのツールであるにもかかわらず、理解がしにくい言語とは存在価値があるのだろうか。
そんなことを考えていた時に、日本語にも正確さと論理を突き詰めた表現が存在することを見つけることができました。
文系の学部を卒業した私は、論文というものを書いたことがありません。
大学卒業の単位にも論文がなかったために卒業論文も書いていませんし、ゼミにおいても論文を必要としていませんでした。
したがって、論文にもいろいろな種類があり、求められている表現としての正確さや論理性が異なっていることすら知りませんでした。
主な論文には以下のようなものがあるようです。
・原著論文: 新しい研究成果の報告のための論文。専門家を対象読者とし、学術雑誌に掲載される。
・総説論文: その分野の今研究の総括。専門家を対象とし、学術雑誌に掲載、もしくは単行本化される。
・紹介記事: その分野の研究成果を紹介、解説したもの。一般も対象としている。一般雑誌にも掲載。
・学位論文: 博士号、修士号など、単位の申請のための論文。対象読者は大学の教員。
原著論文については、このブログでも触れたことがありますが、論文の中でも最高の難易度を持ったものと考えてよさそうです。
(参照:原著論文と日本語)
論理性は勿論のことですが、最終的には世界で認めてもらわなければなりませんので英語で仕上げることが必要になります。
理科系の研究者が、中途半端な文化系の卒業者よりも英語を使いこなすことができる理由が分かった気がします。
それでも、第二言語である英語では母語である日本語ほど深く質の高い知的活動はできません。
日本語で行った知的活動を英語に翻訳するという場面が必ず存在することになります。
対象とする読者は、ほとんどが英語を母語としたり英語の感覚に慣れ親しんでいる専門家です。
日本語の感覚をそのまま英語に持ち込むことは、読者を惑わし無駄な時間を使わせることになります。
原著論文に必要な要素は、事実と意見の書き分けであり、その正確さと論理性です。
一般に触れている仕事や文書の比ではなく、極めて厳格な表現が求められます。
初めて触れた原著論文の日本語版には、飾りを一切排除した厳格なる美しさを感じることができました。
文末もきれいです。
むしろ一般的な日本語とは異なった感覚を持った、言語は日本語ですが中身は英語と言った方がふさわしいかもしれません。
「だろう。」「と思われる。」「と考えられる。」などの、読者の同意を得ようとするような表現は一切ありません。
日本語独特の微妙な表現である、「およそ」「おそらく」「のような」「ほぼ」「・・っぽい」なども一切なく、状態や心情を表す形容詞は全く見ることができません。
自分勝手な解釈を許さない、読者の意見や感覚が入ることを許さない厳格な表現は、日本語のもう一つの美しさすら感じるものです。
指示代名詞を極力避けて、くどいくらいに出てくる固有名詞は、間違いなくその物であることを何度も確認させられます。
一番たいせつな事実を事実として、絶対に間違われないように理解させるための表現は一種の究極の表現力ともいえます。
日本語で書かれてはいるのですが、英語に翻訳することを前提として書かれているものになりますので、文章から受ける感覚は一般的に持っている日本語の感覚からすると違和感があります。
この違和感は、英語話者が日本語に対して抱いている違和感の裏返しではないでしょうか。
原著論文にも、その内容は別にしても書き方において上手い下手があります。
わたしたちが原著論文を読んでも、その内容についてはほとんど理解できないと思います。
しかし、何が事実で何が筆者の主張かを読み分けることは比較的簡単にできます。
見事に描かれた原著論文は、日本語としての一つの芸術作品ということができると思います。
文芸作品としての小説の対極にある芸術ではないでしょうか。
私たちが一般的に使っている日本語は、原著論文と小説の間にあるものです。
小説にはいつでも気軽に触れることができますし、日本語の表現としてすぐれた小説を厳選して読むこともできます。
しかし、原著論文は一般的にはほとんど目にすることがありません。
英語は、世界の共通語としてますますその地位を確固たるものとしていくことでしょう。
日本語は、他の言語話者には難しすぎる言語であり、共通語となる可能性はないと言えるでしょう。
日本語を母語として持っている私たちは、英語を避けた生活はもはや不可能となっています。
日本語でありながら、英語の感覚を一番表現できているのが原著論文です。
理系の人の方が世界に出ていった時に馴染みやすいのは、共通した専門分野の影響だけではないようです。
より専門性が高くなるほど、おなじ論文であっても原著論文の割合が増えてきます。
文系の私たちほど、原著論文に触れることが大切ではないでしょうか。
内容は分からなくともいいのです。
日本語の表現の素晴らしい手本の一端が、間違いなくここにはあるのです。
利用しない手はありませんね。