2015年5月21日木曜日

日本語はハイブリッドが前提

日本語の感覚がハイブリッド思考に向いていることについては幾度か述べてきました。
(参照:自然に使いこなせハイブリッド思考ハイブリッド発想と得意分野 など)

これは日本語が継承してきている基本的な感覚によるものではないかと推察をしてきたものです。

このことについて、日本語の持っている基本的な文としての構図でも確認できることが分かりました。

文の構図として確認できるということは、目で見ることでも確認できることになります。


欧米型の言語の持つ構図と比べた時に、日本語ではそこに書かれている要素の捉え方の違いが明確になってきました。

ひとことで言ってしまえば、日本語は横道にずれることを得意とした言語であり、欧米型の言語は横道にずれることをとことん嫌う言語だと言えます。

それは文の構図を見た時により鮮明になります。


日本語の基本的な構図は、以下の二つのことが守られていればかなり自由な文を構成することができます。
  • 述語が文の最後に来る
  • 修飾語は修飾される言葉の前に来る
したがって、修飾する言葉が増えるほど文が長くなり述語が遠くなります。

詳細な説明をしようとするほど修飾語(節)が増えていきますのでどんどん述語が遠くなっていきます。

さらに、修飾語(節)は修飾される言葉の前にあればいいのであって、必ずしも直前にある必要がないということです。


例文を挙げてみましょう。

「黒い髪の長い目のきれいな女の子」

正確さを求める視点から言えばこれほどの悪文はありません。

「黒い」という修飾語が何を修飾するのかが確定できないからです。

「黒い」が修飾できる言葉だけでも、「髪」「目」「女」「子」と四つもあります。

修飾する言葉によって意味も変わってしまいます。

しかし、日本語としては成立しているものとなっています。


しかも、この文に句点を打ってしまえば一文として成立させることもできてしまいます。

この文には述語がありません。

正確を期して言うならば、名詞節ということになるでしょう。


「女の子」girl なのか「女の(ひとの)子(ども)」her child なのかもわかりません。

前後の文脈から推測するにしてもかなりのむずかしさを伴いそうです。


日本語の場合は、一つの文が最後まで終わらないと終わらないと内容を理解することができないものとなっています。

大事な要素となる主語や述語が頭から順番に登場してきて、その順番に理解していけばいい英語を代表とする欧米型言語に比べると、文のすべてが終わるまで待たないと内容の骨子すら分からないのです。


同時通訳において、英語→日本語の時は話が始まったすぐ後から通訳が行なわれるのに対して、日本語→英語の時は話が一区切りつかないと通訳が始まらないことがよくあります。

登場してきた要素をいったんキープして、最後の述語が登場してきた段階で構成しなおさなければならないからです。


書かれている文についても同じことです。

登場してくる要素が論理的に理解する要素の大切さの順番に出てくるのが英語です。

修飾するものはすべて、大事な要素の後に前置詞や関係代名詞とともに登場してきます。

登場してく要素の順番が、大切な要素の順番に出てくるような構図になっています。


したがって、いったん要素をキープする必要がなくそのまま理解につながっていきます。

極端な場合は、前半部さえ理解できればほとんどの内容は分かりますし論理も崩れることがありません。


日本語の場合は、内容理解の前に登場してくる要素をいったんキープしておかなければなりません。

しかも、要素の重要度は登場して来る順番にほとんど関係がありませんので、すべての要素を同じレベルでキープしておく必要があります。

登場する順番に理解していってはかえって誤解することになってしまいます。


述語の前に修飾語(節)がたくさん出てきますので、思い込みや流れのままに理解してしまうと、一文の中でもどんでん返しを食らったりすることが起きてきてしまいます。

さらには、前後の脈絡までを考慮に入れなければいけませんので、対象となる一文だけに集中しているわけにもいきません。

分かりにくい文に出会った時には、かなり前の文から読み返さなければ理解できないことが発生してきます。


日本語の構図そのものが、読者のハイブリッド思考に頼り切ったものとなっているのです。

日本語を読んでいること自体が、すでにハイブリッドの並列思考を自然に行なっていることになるのです。

数多くの並列要素を、最後の述語を基準として並べなおして理解していることになります。


しかもこの述語にも読者の協力を必要としていますので、断言されることは決して多くありません。

「と思われます。」「ではないでしょうか。」「かもしれません。」「と言えそうです。」などと読者の判断にゆだねるような述語になることがとても多くなっています。

感覚的に慣れてしまっている私たちは、それらも作者の意思として受け止めることが多くなっていますが、「である。」「なければならない。」などと比べると弱いことは確かです。


これらの意志の弱い述語は、キープされた要素の重要度の順位に影響を与えます。

重要度の基準がぼやけてしまうのです。


多くの要素を同時に扱うハイブリッド的な扱いは得意ですが、その優先順位は簡単にはつけられない。

まさしく、典型的な日本人の性格そのものではないでしょうか。

混沌や様々な要素を整理を付けずにキープしていることがけっして嫌ではないのです。


デメリットばかりではないと思います。

しかし、傾向としてこのようなことがあることを知っておくことは役に立つと思います。

一時的に多くの要素を頭にキープしておくことは得意なようです。

書き方を工夫することで回避できることだと思います。


文学的な作品は、日本語のこの機能を上手く使ったものが沢山あります。

言語としての自然な日本語は、論文的な正確さやきちんとした論理よりも心情描写や小説などに向いているものではないでしょうか。

実用的な言語としては、その使い方を工夫していく必要がありそうですね。