2015年5月18日月曜日

「ひらがな」を見直そう

このブログの大きなテーマの一つに「現代やまとことば」の啓蒙があります。

「現代やまとことば」とは音読み漢字やアルファベット、カタカナを排除して表現することです。

文字に表して書くときには、ひらがなと訓読みの漢字で表すことになります。

話し言葉としては、全てがひらがなとして伝わることになります。
(参照:「現代やまとことば」を使おう など)

日本語は、話し言葉を基盤として成り立ってきたといえます。

中国から導入された漢語は、先進文化を学ぶための媒体としての役割は大きな貢献をしましたが、言語としての基盤にはならなかったと思われます。

文字としての漢語が伝わる以前から、話し言葉としての「古代やまとことば」が日常的に使われていたことは、その後の漢語を利用した仮名の発展を考えれば容易に想像ができることです。

日本語の発展は、話し言葉しかなかった「古代やまとことば」にそれを書き記すための文字として、漢語を利用したことから始まるのではないでしょうか。


日本オリジナルの言語である「古代やまとことば」は、漢語という文字を得たことで大きな発展をすることになります。

漢語の音を利用して「古代やまとことば」を書き表したものが、万葉集を代表とする時代に使用された万葉仮名という表記方法です。

この文字が草体化して簡素化されていったものが、今のひらがなの原型と言われています。


カタカナは、漢語を原文のまま「古代やまとことば」として読み下すときに使用された、翻訳のための補助文字ということができるのではないでしょうか。

漢語には、それまでの「古代やまとことば」になかった音がたくさん含まれています。

したがって、正確に漢語を原語のままで読むことは出来なかったと思われます。

現代の中国語も、日本語に比べるとはるかにたくさんの音を持っており、母音だけでも日本人には区別がつかないものがたくさんあります。


より音数の少ない「古代やまとことば」で漢語を理解するためには、翻訳が行なわれなければならなかったと思われます。

もともと持っていた「古代やまとことば」を書き表す文字として漢語を使うことと同時に、漢語を理解するために「古代やまとことば」に翻訳をするという活動が行われていったのではないでしょうか。


結果として、話し言葉としての漢語はもともと「古代やまとことば」が持っていた音で言い表せるものを中心に取り込まれていきましたが、日常生活には浸透していかなかったと思われます。

仏教を学ぶ者や一部の学者的な者たちの間でしか、漢語は使用されていかなかったと思われます。

漢語伝来の初期のうちは勅撰集は漢詩集でしたが、やがてその座を和歌集にとってかわられていきます。

やがて漢語は、一部の知識層の教養としての役割しか持たなくなっていたのではないでしょうか。


それでもその知識層は、先進文明の導入紹介者としての大きな役割を持っていたために、国の中枢とむすびつき様々な貢献をしてきたと思われます。

当事の知識人はみな僧であり、仏教とかかわりを持つことが先端文明と触れることができる数少ない機会であったと思われます。

漢語の読み方や翻訳の仕方も、様々な流派が出来上がり競い合ったことも歴史には残されています。


したがって、日本語の原点やそこから流れる感覚については、漢字よりもひらがなの方が「古代やまとことば」の性格を継承してきていることになります。

その割には、ひらがなに対しての扱いはあまりにも低いと言わざるを得ません。

絵本から始まって、小学校の低学年でほんの少しの間で終わってしまうひらがなの学習は、小学校の指導要領では総計24時間以内に完了させるようになっているようです。

基本的には、読み書きだけで終わってしまっているのではないでしょうか。

ひらがなの言葉についての学習についてはほとんど記憶がありません。


また、学校の教科書でも、ひらがなの言葉でわからない言葉があると恥かしい思いをしたことがあります。

同じ言葉でも、漢字で書けるものは漢字で書かないといけないという感覚がありました。

漢字が上位であり、ひらがなが下位であるという感覚がいつの間にか身についてしまっていました。


和歌や文学でもなければ、実用文においては、あえて漢字で書けるものをひらがなにすることはほとんど経験がありません。

文字で表現することを職業とする人以外では、ひらがなを意識することはほとんどないのではないでしょうか。

漢字が思い浮かばなくて、仕方なくてひらがなで書いた場合には大いなる劣等感を持ったことを思い出します。


しかし、日本語の基本は間違いなくひらがなにあります。

日本語の感覚もひらがなによって継承されてきたものです。

漢字倒れになった現代文においても、上手に使われたひらがなにはホッとするものを感じます。

英語倒れになりつつある環境においては、ひらがなに出会うと一段とホッとするものがあります。

誰もが理解できる解釈とは、ひらがな言葉で説明されたものです。


言語の主な目的は、次の三つではないかと思います。
  1. コミュニケーションのための基盤
  2. 知的活動(認知・思考・表現)のための基盤
  3. あそびや芸術のための基盤

1.2.については、現在の環境においては正確さと効率が優先されているのではないでしょうか。

そのためには、誤解をうまないような確定的な語彙と例外を許さない固定的な文法が最も適していることになります。

表現が豊かで自由度が高い日本語が、最も適していない言語となります。


日本語が最も日本語らしいのは、3,の分野においてではないでしょうか。

そしてその感覚を1.2.においても「ふさわしい」範囲で表現していくことが、日本語を持っている強みではないでしょうか。

1.2.のためだけの言語であれば、日本語でない方が上手くいくはずです。

そこには、余分な選択がないからです。


日本語は、同じことを伝えようと思ったら十人が十人、みな違う表現をすることができてしまいます。

あまりにも豊かな表現力を持っていますので、もちろん正確性や効率性による表現も可能なのですが、一般的にはそんな表現に慣れていません。

また、正確性と効率が徹底的に求められる場面というのは、そんなにあるのでしょうか。

必要な場面には、ほとんど定型やひな形があるのではないでしょうか。


例えて言えば申請書の類です。

必要事項を記入するだけであり、文章はほとんど書くことがありません。

正確性と効率を追求していくと、このようになると思われます。


日常会話や文章も、これに引っ張られていないでしょうか。

「ひらがな」で遊ぶことが、日本語にとっていちばん「ふさわしい」環境のように思われます。

せっかく持っている日本語を、日本語らしく使うためには、場面において「ふさわしい」表現を撰ぶことです。

そこに少しの「ふさわしさ」を壊さないあそびがあることが、最も日本語らしいのではないでしょうか。

もっと「ひらがな」とあそんでみませんか。