2015年5月12日火曜日

あそびの言語

現実世界では論理性や効率性が重視され、そのための活動をひたすら行なうことになります。

たしかに、論理や効率は現代文明の大きな要素でした。

その典型的なものとしてコンピュータが生まれ、コンピュータによるコントロールがレベルを想像以上のものにまで引き上げてきたことは間違えのないことだと思われます。


そのコンピュータも物理的にはただの金属やプラスチックの集まりなのですが、そこにコンピュータ専用の言語によって書かれたOS(オペレーション・システム)があって初めていろいろな機能が働くものとなっています。

今やコンピュータは精度や速度から見たら、人間以上の論理性と効率性によって人の持っている機能を上回ることも増えてきています。

蓄えられた情報と照合することによって、まったく新しいことに対しての規則性の発見や推論すらできるようになっています。


コンピュータの論理の基本形は「Yes or No」の選択であり、今や無限に近い「Yes or No」をほぼ同時に処理することによってさまざまな対応が可能となってきています。

しかしそこにはすべてあらかじめ用意された「Yes or No」の選択であり、その繰り返しによってあらゆることが行なわれていることになります。


そのコンピュータと人との一番の違いが「あそび」ではないでしょうか。

「あそび」が一番得意なのが子どもたちです。

「あそび」そのものが生活だと言ってもいいくらいだと思います。


「あそび」の対極にあるものが現実世界ではないでしょうか。

「あそび」は想像力です。

子ども頃により多くの「あそび」をより真剣に取り組んだ者が、より豊かな想像力を持っていると考えることができます。


義務教育では、生きていくための基本的なルールと知識を教えられますが、その基本は論理性と効率性を求められる社会で生きていくためのものであり、その理解度や習熟度によって社会的なランクを付けられることになります。

法律や経済・経営と言った論理や効率が明確になる分野での貢献の方が、文学や絵画と言った芸術における貢献よりも社会的に評価されることは、現実世界がそれを求めていることに他なりません。

芸術やイベントに対しても経済効果で評価することが当たり前のようになっているのが現実ではないでしょうか。

そのための言語としては、日本語に比べて欧米型の言語の方がはるかに適したものとなっています。


人は現実世界だけでは生きていくことができないと思われます。

そのために「あそび」があるのではないでしょうか。


子どもたちの「あそび」の始まりは模倣にあると思われます。

自分自身が認識できないうちから、自分以外のものの模倣をして「あそび」を行ないます。

動物やヒーローを模倣することもあれば、物や機械を模倣することもあります。

まったく現実を知らない対象にまで想像力によって模倣をすることまでありますが、基本は何らかの一部を現実として理解したことから想像力を広げていくことになると思われます。

そのきっかけは言語ではないでしょうか。

形態模写であってもそこでは言語が想像できるから成り立っているものだと思われます。


その模倣はある種の憧れから引き起こされるものであると思われます。

子どもが父親の模倣をするのは、父親に対してある種の憧れがあるからではないでしょうか。

現実社会としてのなかで、父親に対する憧れの感覚がなくなった時には、父親の模倣をすることはほとんどなくなってきていると思われます。

大人になって、一種の軽蔑的な態度として口癖や態度を真似ることもありますが、そこにおいても自分の現実世界とは異なる中でのある種の憧れが存在しているのではないでしょうか。


ごっこ遊びは典型的なものだと思われます。

少なくとも何かしらの憧れの対象でなければごっこ遊びの対象にはならなかったのではないでしょう。

無理やりにやらされた役割では、すぐに飽きてしまって苦痛すら感じることもあったのではないかと思います。


そこにはわずかな現実をきっかけとする、とんでもなく大きな想像力が働いていたと思われます。

想像力の中だけで「あそび」をしていても、急に現実に戻されることがあります。

「お医者さんは、そんなことしないよ。」と現実の医者を知るごっこ仲間より指摘されたときのバツの悪さは、夢の世界から急に現実世界へ引き戻されることにあります。


「あそび」の世界も常に想像力の世界だけではなく、現実世界との行き来を繰り返していることにもなっているのではないでしょうか。

現実世界と「あそび」の世界とがズレていることは明白ですが、もしかするとそのズレている間にわたしたちが存在しているのかもしれません。

現実世界だけでも、「あそび」の世界だけでも生きていくことは不可能だと思われます。

その中間に存在しながら、その両者の間をゆれながら行き来しているのではないでしょうか。


日本語を母語として持つ者は、欧米型言語を母語として持つ者よりも自己の個に対しての意識が強くありません。

それは「あそび」の要素をふんだんに持った言語だからではないでしょうか。

想像力によって憧れる様々なキャラクターになることで強固な個を必要としないのではないのでしょうか。


何もない文字列に「あそび」によって想像力を注ぎ込むのが作者であり、現実に生きている読者は「あそび」によってその文字列に命を吹き込んでいることになるのではないでしょうか。

言語によって表現されたものは、表現者が表現者としてのキャラクターや登場人物としてのキャラクターによって想像力を使って言語化したものだと言えます。

ただ単に言語として存在する表現されたものを、読み手の方は自分の想像力で「あそぶ」のです。


小説家は大嘘つきだと言った人がいます。

作家の想像力によって現実ではない世界を作り上げているわけです。

読者は、無機質に並んだ文字に対して想像力を使って作家の想像した世界に入っていきます。

作家と全く同じ想像ができるわけはありません。

読者ならではの想像力によって「あそび」の世界を描いていることになります。


「あそび」を誘発する言語としての日本語には素晴らしいものがあります。

いままでいくつくか取り上げてきた「言葉あそび」の例などは、まさしく「あそび」のきっかけではないでしょうか。
(参照:日本語の言葉遊び日本語の言葉遊び(2)など)


堅苦しい定型文や思わぬ文字の中に見つけた言葉あそびなどは、書いた人の想像力を敬いながらも新たな想像力を刺激してもらうことができます。
(参照:「いろは歌」に隠されたユダヤ など)

どんな環境で、どんな思いで書いたのか、まさしくあこがれの対象として「あそび」の世界へ導いてくれるのではないでしょうか。

現実世界は、まだまだ堅苦しい世界も多く、生きていくには環境も厳しいものとなっているのではないでしょうか。

日本語は、現実世界と「あそび」の世界を簡単に行き来できる言語となっているようです。

もっともっと、日本語の感覚に正直に「あそび」があってもいいのかもしれませんね。