「人間は、こころを通して、超自然的な何らかの力によって生かされている」 カント
カント自身が、生まれたっときからの異形と病気を抱えた人であったことは有名な話のようです。
わたしとしては、つい最近知ったことでした。
もともと、哲学系には疎い方でしたからカントと言われても、せいぜい「デカンショ」として記憶している程度のことでした。
貧乏な馬具匠の息子として生まれたカントは、大きな頭に薄っぺらな胸という体つきに悩まされていました。
いつも「苦しい、苦しい」という言葉が口癖だったようです。
母親が13差の時に亡くなり、父親が男手ひとつで育てていました。
貧しくて医者にもかかれなかったようです。
17歳にしてようやく村に回ってきた医者に診てもらうことができましたが、その結果は現代医学では治せるものではないというものでした。
「からだは本当に辛いだろう。
しかし君は、こころまで病んでいるわけではないはずだ。
君も辛いだろうが、お父さんはもっと辛いのではないかな?
そこで、一つ提案だが、これからは周りの人たちだけでも辛い思いをさせないように、
辛いとか、苦しいという言葉を、口に出さないようにしてみてはどうだろうか?」
「たしかに、自分の朝いちばんの言葉は、辛いとか苦しいとかいう言葉ばかりだ。
お父さんにもずいぶん辛い思いをさせてしまっていたんだな……。
よし、今日からは、家族に心配をかけさせないためにも、愚痴は言わないことにしよう。」
少しずつ少年の体にも変化が起こりました。
言葉づかいが変わったことで、気持ちまでが前向きになった少年は、翌年ケーニヒベルク大学への進学をします。
人間についての研究が盛んに行なわれ、心は人間の脳の作用の一つであるとされていた説に疑問を感じた少年は、周囲の学生たちよりも勉学研究に没頭しこの説を翻してしまいました。
やがて、彼はケーニヒスベルクの学長となり、79歳という長寿を全うすることとなります。
「こころ」と「からだ」のどちらが不調であっても、人はきちんと活動することができません。
「こころ」が悲鳴を上げても「からだ」が調子よければ、無視して動いてしまいます。
「こころ」の悲鳴を聞けなくなってしまいます。
「からだ」が悲鳴を上げても「こころ」が元気ならばこれを抑えてしまいます。
「からだ」の悲鳴を聞けななくなってしまいます。
「こころ」も「からだ」も不調であれば、頑張りもききませんし、やる気も起きません。
無理をして、悲鳴を上げている方を鞭打っても、両方が上向いているときのパワーにかなうわけがありません。
「ことば」は伝えるためのものでもありますが、聴くためのものでもあります。
特に日本語にとっては、話すことよりも聴くことに重きが置かれています。
沢山の言葉を持っているのは、表現するための技術を必要とする作家やコピーラーターなど以外の人であれば、聴くことにおいてこそ役に立つことなのです。
調子の悪さにしてもいろいろな状況があります。
痛さの表現もさまざまなものを持っている日本語は、訊くことによってきわめて正確に確認することができます。
「こころ」と「からだ」のバランスについてはいまさらいう必要もないと思います。
「こころ」と「からだ」をつなぐ「ことば」をどのように聞くことができるかで、自分との付き合い方も上手くできるようになるのではないでしょうか。
積極的に訊いてみることによって、聴けることも増えてくると思われます。
「こころ」がどう思っているのかを、もっと言葉として受け止めていいのではないでしょうか。