核家族による親子だけの生活をしている子どもと、祖父母との同居をしている子どもの知育に関しての差が指摘されてから久しくなっています。
1997年に中央教育審議会の答申として、「21 世紀を展望した我が国の在り方」が出され学校教育における世代間交流活動の重要性が取り上げられました。
それまでに出された関係する論文や資料などを検討したものですが、その内容は示唆に富んでいたと思われます。
特に幼児期における高齢者との交流が、その後の知的活動に与えるている影響はより高学年になるほど明確になってくるようです。
このことを言語の習得との関連から見てみると、検証は出来なくとも、これは間違いないだろうというものが出てきます。
そんなことを伝えておきたいと思います。
幼児期に習得する言語は、現代ではその人にとっての母語と呼ばれることが多くなってきました。
生涯の言語感覚や、その言語による知的活動の機能を決めてしまう言語であるために、ますます注目が集まっているところです。
(参照:母語について知っておこう)
とくに幼児期の教育や他の言語習得との関係において、どんな影響が出てくるのかわかっていないために、子供の将来的な知的活動に大きな影響を与える可能性があるものとなっているからです。
母語は、伝承言語とも呼ばれており、そのほとんどが母親の持っている言語から伝承されるものであることが分かっています。
それは、きわめて個性的な言語であり、同じ日本語とは言っても共通語としての国語とは一線を画したものとなっています。
この母語が、知的活動における個性に大きな影響を与えていると思われます。
子どもたちの頭の良さや賢さを測る客観的な指標はありません。
せめて、知能テストや学校の成績などを基準とするほかはありませんし、実際の学歴社会を勝ち抜いていくには学校の成績は大きな要素となっています。
したがって、一般的には学校の成績がよくテストの点数が高い子どものことを「賢い」と呼んでいることになります。
学校の成績は、小学校の時の各教科の理解によってほとんど決まってしまいます。
小学校の時点で、分からないことや悪い点数を取ってしまった教科は嫌いになってしまい、理解が進まなくなったり身が入らなくなって敬遠したりすることになってしまうのです。
小学校の各教科の理解が、国語の習得に原因があることはベテランの先生ならば誰でもが知っていることです。
あらゆる教科書が国語で書かれており、その教科書やテスト問題の国語を理解できるかどうかが最初の関門となっているのです。
国語は、小学校に入って以降のあらゆる知識やルールを身につけるための基本言語です。
授業という定められた学習の場だけでなく、日常生活や学校生活のあらゆる場面での知識やルールの習得のためのツールとなっているのです。
そして国語は、小学校の入学まで使ってきた個性的な言語である母語とは性格の異なった言語です。
同じツール(教科書まど)で同じ理解をできなければ知識やルールとしては役に立ちませんので、万人が同じ理解をできるために用法や意味を厳格に定められた国語によって書かれているものとなっています。
小学校低学年の子供たちに、習いたての国語で話をされて、普段使いの言葉と違って戸惑った経験は誰しもが持っているのではないでしょうか。
国語は、万人が同じことを同じ理解として身につけるための学習言語としての役割を果たしているのです。
したがって、「賢い」子どものためにはしっかりとした国語の習得が必須であり、その国語によってあらゆるものを理解していく能力を持たなければならないのです。
国語によって読解する能力を身につけた子供が「賢い」子であり、それに遅れた子が「できない」子となっているだけのことなのです。
国語による読解能力が高い子どもは、教科書を読んでいるだけでどんどん理解をしていってしまいます。
授業中に教科書を読むだけで十分なのです。
予習や復習は、よほどのことがない限り必要ないのです。
国語の習得も高学年になるほど、難しいものとなっていきます。
初めのころは簡単に理解できていた読解力も、学年が上がると落ちてくることがあります。
これが国語能力の低下だとわからずに、理解が遅れたと思った教科のことを一生懸命やっても効果が上がらないことになります。
特に、中学年では家でほとんど勉強らしいことをしなくとも、授業だけでいい成績を取る子どもがけっこういます。
国語の習得が早い子どもがそうです。
習得している国語に比例した表現で、各教科書が書かれているからです。
それで、学習習慣を付けることを怠ってしまうと、じわじわと成績が落ちてきます。
高学年になってくると、授業としてのその場での読解力だけでは対応しきれない、教科による癖や習慣づけが必要となってくるからです。
つまりは、国語力を頼りとしてその読解力だけで一様に対応できていたものが、教科別に覚えたり考えたりすることが増えてくるからです。
この時に、一番力を発揮するのが、幼児期に親以外の高齢者と数多く触れて身に付けてきた多様性であり異質性に対する対応力なのです。
母語としての多様性でもありながら、現実に高齢者と日々触れる環境で小学校低学年を過ごすことができることは、とんでもなく恵まれた環境となっているのです。
自分で考えることや、自ら調べ学習することができるようになるのは、早くとも小学校の高学年以降になります。
ほとんどの場合は、最終学歴の目標が定まる時期が自己学習の習慣づけが始まる時期となります。
そこに至るまでは、子どものあらゆる可能性を保持しておく必要があります。
そのためには、学校の成績もある程度以上のものを維持しておく必要があります。
そのためには、国語の習得と多様性に対する適応力をつけておく必要があるのです。
反対に、あらゆることに対しての国語による読解力と幅広い異質性に対する理解力があれば、放っておいても学校の成績は必ず上位を維持していくのです。
そのための国語力の習得と多様性への適応のために一番大切なものが、幼児期に身につける母語となっているのです。
母親を中心とした個性的な伝承言語である母語に、幅広い言語としての多様性を経験するための世代間交流による対応が加わった母語は、国語を習得してくための理想的な母語となっていくのです。
幼児期から小学校低学年期に、日常的に親以外の世代との交流があることが一番効果が高いことが、比較検証によって認められています。
そこでは、祖父母だけの場合と祖父母以外の高齢者の場合では子どもの年齢との関係もあって、確かなことは認められていないようです。
しかし、親だけの場合と親以外の高齢者との日常的な交流がある場合では、明らかな差となって現れてくるようです。
しかも、現実にそのことで効果があると思われることが確認できるのが、小学校の高学年以降ではないかとも言われているところです。
老健施設を併設した幼稚園や保育園が増えてきました。
幼稚園や保育園のプログラムの中に、老人ホームの慰問が多くなってきました。
しかし、団体行動ですので、積極的に行けない子供はいつまでたってもその効果を得ることができません。
反対に、普段から世代間交流になじんでいる子どもは、さらに大きくその効果を得ていくことになります。
悪い表現ですが、機会があることによって格差がさらに広がってしまうのです。
身近な方法としては3世代同居が一番ですが、様々な方法が考えられます。
母語としてどんな言葉を持てばいいのかについては、また機会を改めて書いてみたいと思います。