2015年4月7日火曜日

日本語の基本は推測力

英語は、言葉ですべてを伝えようとする言語ですので、相手の理解を期待することなくこちらの意図を間違いなく伝えるための表現することに重点が置かれたものとなっています。

そのために、言葉として伝えきれなかったことに対してまで相手の憶測や推測に期待することがなく、現実としての言葉にする理解を求めるものとなっています。

時々顔を出す、You know. は相手に対して同じ理解をしていることを確認する表現ともなっているものです。


それに対して日本語は、実際の言葉になっているもの以外の理解をされることを前提としていることがあります。

そのために、同じことを表現するのにも、そのことに対する確実さによって微妙に表現が異なってきます。

その表現の微妙さによって、確信していることなのか、あまり自信を持っていないことなのかを推測することができます。


また、同じ表現であっても人によってはその確実さが異なっていたりしますし、表現の癖のようなものもありますので、同じ言葉に対しても話し手や書き手がどのような意図を持って使っているのかを推測する必要が出てくるのです。

相手の理解を確認したり、懇切丁寧な表現は、相手の理解能力を疑っているという感覚がありますので、丁寧な説明が決して良いことだけだとは限らないのです。


日本語の表現の難しさは、聞き手や読み手の理解力・読解力に応じた表現方法や省略方法を選択しなければならないことにあります。

丁寧すぎる表現や説明は、「そんなこと分かっているよ、馬鹿にしているのか。」という反応を生むことにつながりますし、専門的すぎたり省略しすぎたりした表現では「何を言っているのか分からない。」という反応を生むことになってしまうのです。


したがって、理解力のレベルや分野が異なる大勢の人を相手にするときには、どの人に表現を合わせたらいいのかがとても難しいことになります。

ほとんどの場合は、よほどの注意を求められない限り、自分と同程度の理解力はあると思ってしまいますので、普段使っている表現を使ってしまいます。

しかし、その表現は自分と同程度の理解がすでにあることが前提となってしまいますので、聴いている人にとっては分かりにくかったりあるいは物足りないものだったりしてしまうことになります。


しかも、そのことのついての反応は直接的に測ることが難しいものとなっています。

聞き手や読み手の持っている知識や言葉に頼ることになりますので、発信側の意図がどのように理解されたのかは確認することができないのです。

最後の質疑応答でも、自分自身の理解の確認のための質問ができる人はあまり見かけません。

それは、自分の理解力が足りないことを公にすることと結びついてしまうことになるからです。

ほとんどの場合の質問は、自分はそれ以上の理解力や知識や情報があるんだぞという誇示のための質問となっていたり、発信者の欠落や欠陥を指摘するものとなっているのではないでしょうか。


あまりにも多い表現方法は、精確に使うことができれば発信者の意図を正しく伝えることができるものではありますが、またその表現や使われた環境によっても解釈が異なってしまうものとなっています。

行間を読むとか以心伝心、一を聞いて十を知るのようなことが良しとされる日本語の環境においては、言葉の多いことや質問の多いことは決して良しとされないのです。

むしろ、理解力のない者として扱われることになってしまうのです。


誰でもが同じ理解をできるように、日本語としての共通語としての役割を持っているのが国語です。

共通語ですから、誰でもが同じ言葉や用法については同じ解釈ができる必要があります。

そのために、国語辞典や漢和辞典があります。

親切なものにおいては、特殊な用法や意味にまでも言及しているものもあります。


しかし、国語だけで生活をできるわけではありませんし、社会に出ればそれぞれの分野で国語ではない言葉が中心になっていくことすらあります。

やがては、国語と社会における環境語である生活語が入り混じって、区別がつかないものとなっていきます。


日本語は、聞き手や読み手の解釈に期待する言語となっているのです。

発信する側の意図を正確に表現することは可能な言語ですが、そのためにはとてつもなく長い表現が必要になってくることになります。

ましてや、聞き手や読み手が不特定多数となった場合には、同じ理解をしてもらうことはあきらめなければなりません。


聞き手や読み手の推測力に期待した表現しかできないのが普通です。

発信者が意図しなかった理解によって広がっていった言葉もたくさん存在しています。

また、発信者が勘違いして使った言葉や用法が、たまたま同じ理解をされて広まってしまったものもたくさんあります。


この推測をできるだけ発信者の意図に近づける方法はそれほど多くはないと思われます。

一つは、周りの評価を気にせずに、自分の理解を確実にするための質問を繰り返すことです。

言葉を使い始めた子供が、「なんで、どうして。」をしつこく繰り返しているのと同じことです。

本当に理解したいことについては、何度やってもいいのではないでしょうか。


その時にも、自分の推測によって理解した内容を違う言葉で表現してみることが効果的です。

そのための日本語は、驚くほどたくさんあるからです。

それが国語によって表現できていれば違いも明確になり、更により正確な理解となっていくのではないでしょうか。

その国語をさらに共通語として絞ったものが「現代やまとことば」になります。

「現代やまとことば」による表現は、日本人のほとんどの感覚が同じになるものです。
(参照:「現代やまとことば」を使おう


日本語は、聞き手や読み手の持っている日本語に期待することが大きな言語となっています。

伝えたい相手の持っている日本語を意識して表現していくことが何よりも大切になっています。

そのためには、相手の日本語が培われてきた環境を知らなければなりません。


日本語の感覚が、環境との共生を目指したものとなっていることを知っておく必要があります。

一人ひとりの共生しようとしている環境が異なる以上、一人ひとりの持っている日本語が異なっているのは当然のこととなります。

本当に相手に伝えたいと思うときは、相手の家庭環境や学歴や職位、業界や力関係などを調べませんか?

また、相手が発した言葉に対して、どんな環境において発せられているのかを考えたりしませんか?


推測をするための条件を探っているのです。

話しの上手な人は、話しながらでも相手の持っている日本語に合わせた表現をしています。

同じことに対して、さまざまな表現の仕方を持っています。


わかり易い表現とは、丁寧なことだけではありません。

相手の持っている日本語を理解して、相手の推測力としての読解力をうまく利用したものではないでしょうか。

日本語は、聞き手や読み手の推測力に頼った言語となっているのですね。


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