2015年4月27日月曜日

影響力と適応力

日本語の特徴を考えるときに、日本語のことだけを考えていたのではハッキリとした特徴を捉えることは不可能です。

他の言語との比較によって、初めて現実的な日本語特徴が見えてくることになります。

そのときの比較対象として、都度異なる言語を取り上げてしまったら、日本語の特徴が何に対してであるかがボヤけてしまいます。


特徴を取り上げようとするときは、比較対象するものとの差異が最も大切な要素になります。

比較対象が明確になっていない特徴は、現実的には特徴とは言えないものとなってしまうのではないでしょうか。

したがって、このブログで取り上げている日本語の特徴についても、できる限りその要素を比較する対象言語を明確にするようにしているつもりです。


それでも、単純に「他の言語と比較して」と記述してしまっていることも多々あります。

そんなときの比較対象は、文化先進国において使用されている言語、おもに欧米先進文化圏において使用されている言語を念頭に置いています。

産業革命以降の自然科学分野における発展と、その恩恵による工業技術の発展により、比較的安定した社会基盤を構築することに成功した国の日常言語と言い換えることができると思います。

具体的には、英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語がそれにあたります。
全てがラテン語から派生していった言語となっています。


言うまでもなく、日本は世界における先進文化を担っている国の一つです。

先進文化圏の中での言語比較をしたときに、言語の起源から文化の発達の仕方などあらゆる面で、日本だけが際立って異なったものとなっていることに気がついた時にこのブログが始まりました。

それ以降は、言語に関するどんなことを取り上げても、日本語だけが際立って他の先進文化圏の言語と異なっていることの発見ばかりです。

日本語の持っている感覚としての特徴は、むしろ文化的には遅れた国の原住民族が持っている言語に近いものとなっているのです。


20世紀までの世界は、先進文化圏が生み出した学問や発見を基盤とした工業技術が、国としての経済発展を支えて人間としてのより便利な効率の良い社会を作ってきました。

21世紀が近づくころからは、その歪がいたるところに現れてきました。

世界中を巻き込んだ大きな戦争からの復興は、小さないくつもの紛争によって支えられたと言っても大げさではないでしょう。

現在においても、これらの紛争や緊張状態があることによって支えられている国や事業や技術が数多く存在していることも事実です。

自然の大切さを口にしながらも、悪影響を与えることでしか存続できない国や民族や事業があることも事実です。


他の国や他の人にどれだけの影響力を持っているかが大きな価値判断となっており、より大きな影響力を持つことがそのままより大きな力として有利な立場を得ることになっています。

より大きな影響力を持っていることを見せつけるために、様々な国際競争が行なわれてきました。

お互いの主張する影響力がまともにぶつかった場面の典型が戦争でした。


日本を除く先進文化圏の言語の持っている感覚は、自己の持っている力を誇示し他者に対してより大きな影響力を発揮しようとして努力をすることになります。

日本語の持っている感覚は、もともと自己にこだわりませんので誇示する必要がありません。
そして、環境と共生するために自己を対応させようとしますので、あらゆる環境の変化に対応できる適応力を持とうとして努力をすることになります。

人である以上、どんな環境にあっても努力することは当然なのですが、努力の基本的な方向が異なっているのです。

より大きな影響力を持つために努力することと、より高い適応力を持つために努力することは、同じことを身に付けるとしても目的が異なってしまうのです。


アメリカのTIMEが2004年から毎年行っている「世界で最も影響力のある100人のリスト」を発表しました。

この感覚は、歴史文化の継承として身についているものですので、理屈では他の感覚を理解できても自らの感覚では簡単に受け入れられるものとはならないのです。


批判を恐れずに極論を言えば、人として生きていくための目的が違うと言えるのではないでしょうか。

日本語の持っている感覚は、文化後進国や経済的な発展の遅れている、自然と共生している国の言語との共通性が多くなっています。

ワンガリ・マータイさんを覚えているでしょうか。

ケニアの農家の出身でアフリカ人の女性としては史上初のノーベル平和賞を受賞した人です。

国連の平和大使にも任命されたことのある人ですが、日本にはとても馴染みのある人です。

「もったいない」の人と言ったらほとんどの人が思い出すのではないでしょうか。

きちんと説明ができれば、彼女が持っていた感覚で日本語の「もったいない」の感覚を理解できるのです。

その感覚に感銘を受けた彼女の京都会議における演説は、今度は多くの人に感銘を与えました。

これが2004年のことです。


先進国のなかで影響力の大きさを競い合うことよりも、先進国の中でも環境のなかで生かされている感覚を一番持っている日本は、おなじような感覚を持っている人たちにより良く自然と共生するための文化を伝えていくことの方が大切ではないのでしょうか。

協力や協業をすることはあっても、一方的に真似をするべき技術はもはやほとんどないと思われます。

日本語の一番得意とする感覚である、環境と共生するために自己を対応させていく適応力を磨き続けることは、自然という環境を置いた時にこそふさわしいものではないでしょうか。

経済環境や国際環境などを置いた時には、本当に共生すべき環境であるかどうかは疑わしいものであり、そのための努力が本当に日本語としての感覚に合っているのかどうか確認する必要があるのではないでしょうか。


学校教育を初めとして、社会においても、より影響力を持つための方法が求められる場面が増えてきています。

日本語が本来持っている感覚とはうまく調整できない場合には、うつ病の症状を呈すことになります。

世界中で一番うつ病の症状が多いのが日本人だと言われています。

本体持っている感覚と異なる努力を無理にすることによって、ストレスをためることになるからではないでしょうか。


日本語の感覚からすると、人としての理想的な姿はあらゆる環境に影響を与えられる人になることではなく、あらゆる環境の変化に何事もなかったかのように適応して共生していく人になることのようです。

何事にも影響されることなく、何事にも影響を与えることなく、人と自然と共生しながら自在に生きること。

日本語の感覚からは、そのような姿が浮かび上がってきます。

その中でも同じ感覚を持ちながら、現実の生活をしていく努力こそが日本語の持っている感覚に沿った生き方のようです。


先進文化圏に属しながらも、際立った特徴を持った日本語は、日本の歴史文化そのものでもあります。

周りと異なっているだけに、自分たちがそのことをしっかり理解しておかないと、知らないうちに周りの意見に押し流されてしまいます。

世界や周りと触れずに生きていくことは不可能な時代となっています。

違いをしっかりと理解しておきたいですね。