人の知的活動については何回か述べてきましたが、その基本となっているのが三つの要素です。
認知活動、思考活動、表現活動の三つになりますが、この活動のそれぞれに使用する最適な言語が異なります。
(参照:知的活動と言語について など)
認知活動は人と共有することが大切になります。
人と違う自分勝手な解釈をしてしまうと、認知した事実そのものが違ってしまいますので同じ事や物に対しての同じものという判断ができなくなってしまいます。
同じことと違うことの基準が違ってしまいますので、他者との共通の土俵には立てないことになります。
わかり易く言いますと、社会性がなくなるということになります。
一人で生活しているわけではありませんので、自分勝手な解釈や認知では社会との共通性がなくなってしまうことになります。
認知活動においては他者との認知の共有がとても大切になります。
そのための「知る言葉」としては日本語としての共通語である国語が最適な言語になるのではないでしょうか。
もちろん、専門用語や業界用語が中心となる生活語であっても共通理解ができれば問題はありませんが、国語によって定められたほどの厳密な解釈の共有には及ばないものと思われます。
それに対して、思考活動は完全なる個人活動になりますので、社会性や他社との共通性は意識する必要がありません。
使用する言語としても誰にもわからない自分だけの言語であっても構わないことになります。
そうはいっても、より質の高い思考活動を求めると自然と母語に頼ることになることは、必然のこととなります。
思考活動は母語によって行われることが理想とはなりますが、発想の転換などの視点からするといろいろな言語がきっかけとなることもあると思われます。
表現活動においては相手に理解してもらうことがとても大切になります。
そのために行なっている活動であると言ってもいいのではないでしょうか。
「伝える言葉」としては自分勝手な言語では意味をなさないことになってしまいます。
「伝える言葉」とは相手に理解してもらうための言葉ですが、どんな言葉を使ったらいいのでしょうか。
伝える側である自分を主体にしてしまったら、いつまでも答えの出ないことになってしまいます。
そうです、相手に理解してもらうために伝えるのですから、相手の持っている言葉で伝えるのが理想になります。
しかし、相手の持っている言葉を把握することは容易ではありません。
そのために、本当に理解してもらいたい相手に対しては、相手の持っている言葉を知るために様々な感覚を働かせることになります。
意識をしなくとも行なっていることは、理解してほしい相手の言語環境を探っていることです。
具体的には、学歴や職歴、専門分野や出身地、趣味や各種活動内容など、具体的な共通点を見つけることによって、相手の持っている言語(言葉)を確認しているのです。
相手の持っている言語は、共通語としての国語もありますが、社会生活が長くなるほど生活の占める割合が増えてきています。
そのために、高等教育以降の学歴や社会生活として染みついている環境を重視することになります。
「伝える言葉」を伝える側が持っている自分の言葉で行なっている場合は、実際には本当に伝えたいことが伝わっていないことが多くなります。
特に業界用語的な言葉を、自分たちの世界だけの隠語のように使って優越感に浸っている者がいますが、傍から見ているととても醜いものに映ります。
どんなに難しい専門的な世界であっても、ベテランになるほど一般的な言葉や表現でわかり易く伝えようとします。
専門用語に浸って特権意識を持っているようなものは、駆け出し者ばかりのようです。
どんな業界においても、その業界における経験が深くなるほど、社会との接点を大切にするようです。
そのために、より一般的な言葉で表現するようになるのではないでしょうか。
どの分野においても、本当にその分野の専門家は、とてもわかり易く専門分野について伝えてくれます。
本当に理解しているとは、いかにわかり易い言葉で伝えることができるかということになるのではないでしょうか。
それでも、相手の持っている言語(言葉)を確認することはなかなか難しいことになります。
直接確認することはさらに難しいことになりますので、その人の言語環境を知ることによって推測をすることになります。
推測ですから、外れることもあります。
本当に伝えたいことこそ、外れてしまっては困るのです。
そんな時には、推測して使った言葉をさらに置き換えて伝えてみることが必要になります。
置き換える言葉は、日本語の共通語としての国語が一番です。
しかし、国語もどこまでが国語でどこまでが生活語になっているかはなかなかはっきりとしません。
まずは、国語で置き換えてみることをするのですが、それでも分かりにくいことや誤解を招くことも多々あります。
そんな時には、国語の更に基本になっている言葉を使用します。
それが「現代やまとことば」です。
漢字の訓読みとひらがな言葉で表現してみるのです。
漢字の音読みを、すべてひらがなや訓読み漢字に置き換えてみるのです。
義務教育を修了した人で、「現代やまとことば」を理解できない人はいません。
日本語は、中学を卒業しても日刊紙が読めないほど難しいものとなっています。
しかし、多くの言葉と表現を持つ日本語は、「現代やまとことば」によってほとんどの言葉が置き換え表現が可能となっているのです。
もちろん、相手の持っている言語を推測して、音読み漢字を使って構わないのです。
それを補足する形で「現代やまとことば」で置き換えてことをしてみればいいのです。
「伝える言葉」は受ける側から見たら「知る言葉」でもあるのです。
「伝える言葉」と「知る言葉」のギャップが小さくなればなるほど、コミュニケーションは効率と精度の高いものとなっていくことになります。
曖昧さや省略の多さを指摘される日本語ですが、その本質は膨大な表現力にあります。
つまりは、共通理解のためには大きすぎる言語であるということができます。
そのためには、共通理解のための日本語としての国語でも、まだ大きいということができると思います。
「現代やまとことば」が共通日本語としての役割を果たしてくれるのではないでしょうか。
意識して使ってみたい言葉ですね。