2015年4月17日金曜日

真面目な人ほど苦しむ、言語感覚の違い

自分が持っている基本的な感覚があります。

そこには、意識ができる前から作られた半本能的なものと後天的に経験によって作られてきたものがあります。

半本能的に幼児期から作られた基本的な感覚は、母語の形成によってできたものということができます。

母語は生涯書き換えることができない、その人の生涯言語として存在することになる基本的な言語です。

この言語をどんな言語で習得したかによって、その人の基本的な思考や行動のための感覚が定められてしまいます。
(参照:母語について知っておこう

母語は、そのほとんどが母親から継承されたものとなっているためにきわめて個性的な言語となっています。

母親が日常的に使っている言語ですので、母親が習得してきた言語環境によって一人ひとり異なる個性的なものとなっているのです。

母親の持っている言語のすべてが子どもに伝承されるわけではありませんが、母親の持っている言語以上のものが伝承されることもありませんので、母親の持っている言語が子どもに伝承されてその子の母語としての限界であるということができます。


この母語によって幼児期の機能のあらゆる発達の過程が決まってしまうようです。

母語を認識するための聴覚や視覚、母語を発生するための声帯や口腔などの形や機能が母語を使用するために最適な形で発達していくのです。

そのために不必要な機能は、あまり発達をしていきませんので相対的に低下していくことになります。


したがって、あらゆる知的活動においては、母語によってなされることが一番質の高いことができることになります。

この母語の習得の期間で、母語の持っている感覚も言語と一緒に自分のものとして習得していくこととなります。

感覚だけで活動していく幼児期を通じて、半本能的な感覚として身についていくことになるのではないでしょうか。


義務教育において国語の習得が始まるときに、一番頼りになるのがそれまでに習得した母語による感覚になります。

母語による感覚は、同じ日本語とは言っても一人ひとり異なったものとなっていますので、義務教育においては日本語の共通語としての国語を習得する必要が出てきます。

生きていくための基本的な知識やルールを身につけるためには、みんなが同じ理解をしなければなりません。

そのための共通理解のために意味や用法が限定されて使われる言語が国語です。

その後のあらゆる知識やルールを、教科書を中心とした国語によって身につけていくことになります。

国語の習得が遅れることは、すべての学習に影響が出ることになります。

その国語を習得するために基本的な言語感覚が母語によって形成されているものになります。
(参照:日本語と国語の関係

ところが、国語や習字、古文以外のほとんどの教科は、その起源のほとんどがヨーロッパの自然科学にあります。

そのために、そこで展開される論理や考え方は彼らの言語の感覚によるものとなっています。

日本語の言語からするとかなり大きな違いがそこにはあります。

むしろ、世界の他の先進国の言語に比べると日本語だけが特殊な感覚を持った言語と言った方がいいのではないでしょうか。

その感覚は、自然の中で科学技術とはかけ離れた生活をする原住民の感覚に近いものと言えると思われます。
(参照:日本語の感覚に迫る ほか)


その感覚は、あらゆる環境と共生できることを理想の姿として自分を適応させることによって成し遂げようとします。

ヨーロッパを中心とした科学先進国の言語感覚の基本は、自分のもつ影響力をより大きな環境に及ぼすことを理想として発信していくことによって成し遂げようとします。

したがって、日本語の持つ基本的な感覚は環境から拒絶されることに対して大きな脅威を感じます。

そうならないようにあらゆる環境に対して適応して共生していこうとするものです。

彼らのスタイルである、論理的に説得をして自己を主張していこうとする感覚とは対極にあるものとなっているのです。


そのために日本語の感覚は環境の変化を敏感に感じ取ろうとし、変化に対応するために学ぼうとします。

その姿勢は、求道者的な真面目さとして映ることにもなります。

海外の先進文明についても、自分の適応力を増すために学ぼうとすることになります。


ところが彼らの持っている基本的な感覚は、日本語の感覚と異なることがとても大きくなっています。

言語の起源をほとんど同じものとして、現代言語としては異なる言語をもっている彼らであっても、基本的な言語感覚については共通するものをたくさん持っています。

彼らの間同士では、簡単に理解し感覚として抵抗なく取り込むことができるものであっても、日本語ではそうはいかないのです。

この言語感覚のズレがストレスを生むことになります。


真面目な日本語話者は、そのズレをも環境として取り込もうとします。

現代社会は社会の仕組みや企業環境などほとんどが、彼らの論理や感覚によって成り立っています。

日本における社会人のうつ病の多さや、ストレスを抱えた人間の多さは、他の国に比べるとけた違いに多くなっているのです。


その感覚の異なる環境に対しても真面目に取り組もうとするのが日本語の持っている基本的な感覚です。

真面目に取り組もうとするほど、一生懸命に共生しようとすればするほどストレスをためることになります。

自分を変化させることで対応しようとする日本語の感覚は自己主張が極めて苦手にできています。

感覚のズレに対して、Noとはっきり意思表示することが苦手なのです。


真面目に取り組む人ほど、言語感覚にのズレによるストレスに晒されることになります。

学生生活でも、あらゆる教科に対して真面目に取り組んだ人ほど、その傾向が強くなることになります。

丸暗記と記憶だけで勝負できているうちはそれほど感じることがなかったとしても、認知や思考や表現などの活動が増えていくとその感覚のズレに向き合う場面が増えてきます。

しかも、ズレを明確に認識することもなく適応ししていくことを求められますので、真面目にやればやるほ厳しい状況となっていくことになります。


この感覚のズレに対して、意識しなくとも自然に対応できる人がいます。

ズレていることに気づかずに適応することがストレスを生みますので、ズレを感じて修正できれば自分の感覚で適応することが可能となります。

そのために、彼らの論理や考え方をそのまま受け入れて適応しようとするのではなく、自分の感覚で理解できるように解釈をすることが上手な人がいます。

子どものように好き嫌いをはっきりと口にして、好きなことに集中する人です。


彼らの論理やノウハウをそのままやろうとするから、ズレのギャップに真正面から向き合わなければならなくなってストレスを発生させてしまうのです。

勝手に自分なりに解釈をしてしまえば、それはすでに自分の感覚に取り込まれたものとなるので、ストレスを感じることが激減するのです。

自分の感覚ですので、まさしく好き嫌いでいいのです。


真面目な人ほど好き嫌いで判断することを善しとせず、そのまま受け入れて素直にやろうとします。

そこには感覚のズレがいたるところにあるのです。

日本語で書かれた論理であっても、その論理の展開や基本的な考え方の感覚がズレていれば同じことです。


適当に、ある意味ではいい加減に、感覚的に合うものだけを取り込んで適応し共生していくことをできるといいですね。

自然にこれができている人は、同じことに対してもほとんどストレスを感じることなく取り組むことができます。

勝手な解釈を表現したり主張したりすることは、環境から拒絶されることがあるので苦手になりますが、勝手に解釈することは誰に伝えるわけでもないので何のストレスも発せしません。

外に対して好き嫌いを発信することは苦手であっても、自分で感じることは出来るはずです。


自分の持っている感覚として受け入れることができるかどうか。

かなり抽象的な表現ですが、このことがこれからの判断基準として大きな意味を持ってくるのではないでしょうか。

持っている感覚は基本的な日本語の感覚の上に積み上げられた、一人ひとり微妙に異なるものとなっているはずですので受け入れ方も微妙に異なっていいはずです。

気心の知れた仲間と、お互いの感覚の違いについて語れる環境は、ストレス解消の理想的な環境になるのでしょうね。