ギネスブックに掲載されている記録に中にこんなものがあります。
現存している言語のなかで、その起源が最も古いものが中国語であるとされています。
文法や使用する文字の大きな変化がなく、起源とされる文字や文法が現代でもそのままに日常的に使用されていることがその要件となっているものです。
世界の文明の先端を走っている国の多くは、ラテン語から派生した言語となっていますが、ラテン語をそのまま日常言語として持っている国はほとんどありません。
ラテン語は現代では死語としての扱いとなっており、日常的に使用されている母語としては後期のラテン語である俗ラテン語から派生してそれぞれの言語になっていたものとされています。
それらの言語はラテン語とは区別された現代言語として、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語などアルファベットを使用した言語として発展していくことになります。
したがって現存するそれぞれの言語は、私たちが思っている以上に新しい言語ということができるものです。
現在でもラテン語を公用語としている国はバチカン市国のみとなっていますが、そのバチカン市国でもラテン語が用いられるのは公式会見のみで、日常生活ではイタリア語が用いられています。
欧州諸国では、第二次世界大戦までは中等教育においてラテン語が必修となっていましたが、その扱いは日本における「古典」「古文」の扱いと似ておりむしろ「漢文」としての扱いに近いものとなっていたようです。
「古典」「古文」についての表記文字は、文法や文字とも現代の日本語の日常表現である漢字かな交じり文(和漢混淆文)とほとんど変わりませんので、何とか読み解くことが可能になっていますが、「漢文」については基本的な文法が異なっており読み解くためには知識が必要なものとなっています。
「漢文」は漢語を導入して以来、文字の基本となってきたものですが、漢語としての読みについてはまさしく中国語であり、現代日本語とは一線を画したものとなっています。
日本語の原点は、仮名の発明を以ってその起源とすることが妥当と思われます。
漢語が導入されるまでは、古代やまとことばとして文字のない話ことばとして存在していたものを表記するために、漢語という文字を利用して古代やまとことばを表記する文字を発明したものです。
初めは漢字の形をして、漢語の読みを利用して表記していたものが、より簡素化された形となっていき仮名になりました。
したがって、その変化のどの段階においても文法や基本文字が変わっているわけではありません。
簡略化された文字からも、その文字の原型(字母)を理解することができるものとなっているのです。
歴史に残っている仮名としては万葉集がその代表として挙げられるでしょう。
したがって、万葉集以降は日本語はまさしく万世一家の言語によって継承されて来ているものということができます。
時代によって新しい言葉(単語)を生み出したり、新しい用法を生みだりしたことはありますが、基本的な文法や用法は1500年を超えて使用され続けて現在に至っているものとなっています。
中国においては、現在でも使用されている漢字の原型を2500年以上さかのぼることが可能となっているのです。
したがって、中国語が持っている言語の感覚はそれだけの歴史を経て今も使われていることからわかるように、完全に言語の中に染みついたものとなっており、中国語を母語として持っている人には、他の言語を使う人たちとは明確に異なった感覚を読み取ることが可能となっているのです。
このことは中国語を母語として持ったいる人にとっては、簡単に変えられるものではありません。
第二の本能と言ってもいいくらいの感覚として刷り込まれていることになります。
中国語を母語として持つ人たちの基本的な感覚を決めているものということができます。
しかし中国語は一種類ではありません。
代表的な方言だけでも十以上あると言われています。
さらに、方言同士では話も通じないことが頻繁にあるものとなっています。
そのために共通語としての「普通話」が教育として取り組まれており、どの方言話者でも全人口の7割程度は「普通話」を理解すると言われています。
「普通話」はどの方言にも属していない言語となっていますので、方言が母語として基本にあり「普通話」が第二言語としてバイリンガルになっていることが多くなっています。
日常語が方言であり、「普通語」は共通語としての役割になっていると思われます。
日本においても各種の方言が存在しており、方言同士の会話ではほとんど意味が通じないこともあります。
しかし日本語の共通語である「国語」においては、7割どころではなくほぼすべての日本人が理解できる標準語となっています。
また、日常語のほとんどが国語によって行われています。
世界の他の文化とは共通言語を持たない日本語は、世界の先端文明を取り込むときには日本語としての新しい言葉をたくさん作っていきました。
それは、世界の先端文明に侵略されることなく、自ら取り込み消化していくことを意味しています。
原意とはニュアンスの違いがあったとしても、その違いを含めて自分達の文化として取り込んでいったのです。
手本となる文化・技術・論理はあったとしても、日本語としての解釈によって取り込んでいったことになります。
借り物の文化や技術をそのまま利用する場合には、その文化や技術が持っている言葉を使うことの方が適していることは誰が考えてもわかることではないでしょうか。
自分たちの日常語である言語に置き換えることは、自分たちの持ってい言語の感覚によって解釈をしなければできないことです。
外来語や外国文字の氾濫は、自国言語での解釈を放棄して利用するためだけの行為であることを示しています。
欧米言語は、比較的新しい言語ばかりで、それぞれの言語による感覚は明確になっているとは言えません。
言語感覚が出来上がるまでには長い歴史と様々な環境に晒されてくることが必要になると思われます。
そのかわり、彼らの言語はそのもととなる言語の起源をほとんど同じにしています。
したがって、似たような感覚はその根源に持っていることになるのではないでしょうか。
彼らにとっての言語は、感覚というよりもコミュニケーションのために道具という意味合いが強いように思合われます。
万世一系の言語を持っているということは、他の目から見るとその特徴が際立って金太郎飴的に映ることになります。
他の国から見た中国人や日本人は、きわめて象徴的に描写されることが多いですね。
言語の特徴的な感覚は、それを使用する人の行動や思考において現れることになります。
日本人の特徴を決めているものは日本語ではないでしょうか。
そして、日本語が万世一系持ち続けている言語の感覚ではないでしょうか。
細かく見て行けば、同じ日本語とは言っても一人ひとりが持っている日本は少しずる異なっています。
その部分が個性として出てくるものではないでしょうか。
万世一系の日本語の持っている基本的な感覚と、一人ひとりの持っている日本語の多様性が相まって日本語が継承され続けていくのではないでしょうか。
歴史のある万世一系の言語である日本語だからこそ、その感覚を知っておくことが役立つのでしょうね。