皆さんは、この字を何と読むでしょうか。
「私」
国語的には、この字の読み方は「シ、わたくし」の二つしかありません。
「わたし」とは読めないことになっています。
ところが、一般的な日本語変換のソフトの中では「わたし」と打って変換すると、「私」がすぐに出てきます。
NHKでは、「わたし」と読ませたい場合にはひらがなで書くようになっているようです。
いつごろから日本語のなかで「わたし」と言う言葉が使われるようになったのかについては、なかなかコレと言った資料が見当たりませんでした。
「わたし」は一人称を表す人称代名詞ですので、いわゆる個の感覚が当たり前になった明治維新以降の民主主義教育がいきわたってからではないかと思われます。
歌詞の中に登場してくる人称代名詞については、前に見たことがあるので参考にしていただきたいと思います。
(参照:いつから「私」と言いだした)
「歌は世につれ、世は歌につれ」と言われるように、歌謡曲の歌詞は世相を反映したものとなっていますので、歌詞のなかで「わたし」が使われたころが定着してきたころと言えるのではないでしょうか。
そうしてみると、参照のブログにもあるように昭和45年に阿久悠によって書かれた「白い蝶のサンバ」の「あなたに抱かれてわたしは蝶になる・・・」までは、明確な「わたし」を見ることができないようです。
明治維新以降の民主主義教育から幾たびかの戦争を経て、アメリカによる戦後民主主義が導入されてさらに20年が経過してから現れた始めたことになります。
日本の民主主義は、他の文化から借りてきたものであり日本の中から生まれてきたものではありません。
導入すること自体は決して悪いことではありませんが、自発的に生まれてきたものに比べるとその意義や必然さにおいて欠けるものがあります。
また、自分たちのモノになるまでには何度かの修正や変化によって熟成されて行かなければなりません。
日本が持っている歴史文化にとって、民主主義が本当にあっているのかどうかも分からないことです。
それだけを一生懸命研究している人もいるくらいです。
「私」という概念は、対になる概念である「公」とともに導入されたものだと思われます。
つまりは「私」は単独でとらえてしまうと、とらえどころのないようなものになりがちですが、「公」と一緒に捉えることによってその立場をより鮮明にすることができるものとなっています。
ここが日本語の感覚の素晴らしです。
自分を定義するときに、自己主張だけでは確認できないのです。
周りとの関係性を確認することにおいて、初めて自分を確認することができるようになっているのです。
決して、「私」が単独で絶対的なものとして存在しているわけではないのです。
「公」があることが前提であり、その対比として「私」の位置付けを考えることが得意なのが日本語の持っている感覚です。
「私」だけをとらえて定義しようとすると、どんな定義を持ってきても不安になりませんか。
「公」と「私」を両方見据えたうえで、更には「公」が定義されたうえであれば、比較的簡単に納得のいく「私」を定義することができるのではないでしょうか。
言葉としての「わたし」はなかったとしても一人称を表す他の言葉は、明治期以前にも存在していました。
「麻呂、それがし、朕、拙者、手前、拙僧」などは使われていました。
しかし、それらの言葉は限られた世界のなかでのある種の身分を示す言葉であり、今の様な一般的なすべての人に対して用いられる「わたし」とは感覚を異にしていたのではないかと思われます。
日本語の感覚としては、「わたし」は「私」ではなくやはりひらがなではないでしょうか。
漢字としての「私」には、どうしても「公」の影がついて回るのではないでしょうか。
「わたし」という音には多少なりとも「私」のイメージが含まれてしまいます。
あえて、「私」の漢字のイメージを強調したいときには「わたくし」と言った方が適しているように思われます。
話し言葉としては「公私の私」と言った表現もよく使われますね。
しかし、「わたし」をイメージしたときには、逆効果となることが多いと思われます。
「私」とすると「公」の影が見えますので、なんとなく改まった言葉としての感覚が含まれています。
ことさら個人の立場としてのことであることを強調したいときなどには適した表現になると思われます。
「わたし」は単独で市民権を獲得することができた、一般的に自分自身のことを示す人称代名詞として定着したものと言えると思います。
現代のやまとことばとも呼べるものになっているのではないでしょうか。
わたしも、よくよく振り返ってみるとほとんど「わたくし」を使った記憶がありません。
冗談か駄洒落か嫌味か、そんなことくらいにしか使わないのではないでしょうか。
元は「私」であったはずですので、ようやく熟成して根付いてきたのが「わたし」ということなのでしょう。
明治期以降にたくさんの新しい言葉が作られました。
その後も、戦争や戦後民主主義の導入などの変遷を経験して、ようやく明治期以降に作られた言葉が定着しているところではないでしょうか。
その中には、急いで言葉を当てはめたがために原意とは微妙なニュアンスの違いを持った言葉がたくさん含まれています。
(参照:100年たって微妙なずれが現実に・・・)
日本語としての感覚のなかで定着した言葉は、もはや訳語としての役割すら果たすことができなくなっているものもあります。
自然に定着して日本語なっていった言葉たちを、もう一度日本語の感覚で見直してみることはとても意義のあることではないでしょうか。
それらの言葉によって、私たちの持っている日本語の感覚も必ず変化してきているはずです。
基本的な日本語の感覚を知ると同時に、一人ひとりが影響されている日本語の感覚も知っておく必要がありますね。
この感覚とズレたことが、ストレスを生むことになるのですから、知っておけば対処の仕方が見つかることになります。
一番深い思考は、母語である日本語でしかできない私たちは、もっともっと思考の最高のツールとしての日本語を知っておく必要がありそうですね。