2015年3月30日月曜日

日本語と国語の関係

私たちは国語という呼び方にすっかり慣れてしまっています。

義務教育としての教科の中にも立派に国語科として存在しています。

日本語と国語とでは何が違うのでしょうか。

学校教育以外で国語という言葉を耳にすることはあるでしょうか。


外国特に英語圏においては、この国語に相当する言葉がありません。

敢えて、英語にするとしたら National languageとでもなるのでしょうが、 ほとんど見かけない言葉です。

イギリスやアメリカでは自国語のことを Englishすなわち英語と呼んでいます。

時として、憲法上あるいは法律上で、その国における優勢な言語を国語( National language)として定めることもありますが、極めて少ないこととなっているようです。

それよりも、公用語としての言語を定める国の方がはるかに多くなっています。


そもそも、日本において国語という言葉が登場してきたのが、明治期以降です。

明治18年に設立された「方言取調仲間」の趣意書の中に「我が日本の国語」として記されたのが最初だと言われています。

明治期に作られた、いわゆる和製漢語であることが分かるのではないでしょうか。

その後、漢字の使用国に輸出されて、その国の言語としての意味でいくつかの国で使われるようになったものです。


中国には「国語」という名の書物が存在しています。

春秋時代の中国を扱った歴史書の一部として存在しているものであり、日本語で使われている国の言語としての意味ではなく、いち書物の固有名詞として存在しているものです。


日本語で国語と言った時には、どうしても教育と切り離すことができないようです。

いわゆる国語教育という学校教育における一分野としての在り方です。

現代仮名遣い、当用漢字/常用漢字などを決める上での大きな役割を担っている国語審議会などが馴染みのあるところではないでしょうか。

国語審議会は2008年に省庁再編の影響を受けて、文化審議会国語分科会となり、教育漢字などの日本語教育、漢字制限の在り方などを検討する組織となっています。

国立国語研究所は、これに協力する形で各種の資料の研究や提供を行なっているところです。


このように見て来ると、国語が日本語の中でも義務教育において統一的に行なわれる教育のなかで、共通語としての役割を持っていることが見えてきます。

義務教育として、すべての国民が等しく身につけていく知識やルールのための根幹の言語教育となっているものです。

すべての教科の教科書は、国語のルールに則って書かれているものとなっています。


書かれている内容について、一人ずつが勝手な解釈をしてしまったら共通の基礎知識やルールとはならなくなってしまいます。

使われている言葉に厳格な意味を与え、理解するために必要な漢字を定め、その使い方も一定のルールが決められている日本語が国語ということになります。

日本語には正しい日本語というものは存在しませんが、国語には正しい国語というものが存在することになります。

そのルールから外れた解釈をしたり使い方をしたりすれば、国語のテストでは×がつくものとなっているのです。


国語のルールに則って記載されたものは、すべての人が同じ解釈をできなけれはならないものとなっているのです。

全ての教科書が国語のルールに則って書かれていますので、統一的な理解ができるようになっています。

算数や理科や社会、図工や音楽に至るまで、国語がきちんと習得できていないと定められた統一的な理解ができないこととなってしまうのです。


ベテランの小学校教諭は、このことをよく分かっていますので、テストやプリントにしてもきちんとそれまでに習った国語で表現するようにしています。

教科についての遅れがみられる子どもには、その教科の内容が理解できないのかその内容が書かれている国語が理解できないかを確認して指導しています。

細分化された教科は、それぞれの教科に独特の表現や一種の癖を持ったものとなっています。

それを理解するのが国語として身につけた言語能力なのです。


その国語においても、義務教育前に子どもたちが使っていた言語と比べると感覚的にズレがあったり理解しにくかったりすることがあります。

義務教育前に子どもたちが持っている言語は、基本的には母親から伝承された言語を元にした、きわめて個性的な言語となっているからです。

それが方言であったとしても、日本語としての基本的な感覚は大きな違いがありませんし、国語の教育課程においてある程度は考慮されてることですのでそれほど心配はいらないと思います。

しかし、そこに外国語が混ざっていたらどうなるでしょうか。

義務教育における国語科では、そんなことは考慮されていません。


幼児期の言語は、子どもの基本的な知的活動を決めてしまいますので、それは言語の感覚として染みついてしまっています。
(参照:母語について知っておこう

これから、あらゆる基本的な知識やルールを身につけていくための一番大切な国語に対して、違った感覚を持ってしまっては周りの人たちとの感覚にズレが出てくることになります。

しかも、このズレは国語を習得しているうちにはほとんど気がつかないものとなっています。

教科としての独自性が出てきたり、難しい文章を解釈したりしたりする小学校の中学年以降で現れてくることになります。


海外で幼児期を過ごした子供が、日本の小学校に入って国語を学習しても基本的な国語を身につけている間は、ほとんど変わりなく習得できると言われています。

ところが、高学年になってくると、様々な教科でズレが生じるようになるようです。

ましてや、同じことに対して周りの友達と感じ方や理解が違っているとわかるようになるのが、このころからになります。

大人になって社会に出てしまえば、国語のウエイトが減っていきますので解消されていくようですが、自分でもどうにもならないこの感覚のズレは様々なことに影響してくることになります。


国語で感覚的なズレが生じると、あらゆることに影響してきます。

何処に出てくるかはそれぞれのズレによって異なるのでしょうが、いずれにしても周囲と違うということになってしまうのです。


日本語は世界でも類を見ないくらい難しい言語です。

それにもかかわらず基本的な国語の習得は、義務教育の最初の数年で終わってしまいます。

その後は、基本的な国語によって学習し、国語の強化をしながら知識やルールを習得していくことになります。


確かに、義務教育においては社会生活で直接的には必要のないこともたくさんありますが、その部分にだけズレが出るとは限りません。

また、その先の高等教育における基礎知識や基本ルールでもあります。


国語は日本語の中のほんの一部であるということができるでしょう。

しかし、そのほんの一部の国語によって学生生徒としての評価や学歴という、いまだに日本の社会では大きな要素を占めていることが決まってしまうのです。

子どもは自分では、言語のための環境を選ぶことができません。

少なくとも、国語の習得に対して感覚的なズレが生じない環境を整えてあげたいですね。