欧米型言語の感覚が、個人としての論理を理解することによって人を理解することに対して、日本語の感覚は環境を理解することによってその環境との関係によって人を理解するものだということができます。
その環境も、一人の人であっても生活の場面によっていくつもの環境のなかで存在しています。
家庭という環境もあれば、職場という環境もあり、移動中であればそこも一つの環境となります。
人を理解することにおいて、個人の主張に重きをおかない日本語の感覚としては、言語で人を理解する割合が欧米人に比べて少ないことになります。
非言語による情報収集によって、その人が属している環境を理解しようとすることが多くなります。
実際に交わされている言語に対しても、環境を読み取ろうとしますので、直接的な言葉の意味以外ものまで読み取ろうとします。
同じ人であっても属する環境によって、その人に対しての呼び方までもが変化してくるのです。
一人称における変化については触れてみましたが、他の人称においても同じことが言えます。
(参照:環境で変わる一人称)
同じ人であるのに、環境によっては「あなた」「きみ」「おまえ」「おとうさん」「おにいさん」「おじさん」「部長」「ご主人」などなどいくつでも出てきます。
つまりは、環境との関係において人称としての呼び方すら適応させているのです。
お互いが、話題にしていたり取り上げたりしている環境が理解できている場合のほとんどは、人称の呼び方が省略されることが多くなります。
その場面で、無理に人称表現を使用すると、かえって堅苦しいものとなってしまったり雰囲気を壊したりするものとなってしまうことすらあります。
面と向かっている相手であれば、多勢であっても一人であっても「You」で済んでしまう英語と比べると、なんと面倒なことをしているのでしょうか。
しかも、ほとんどの場面においては意識すらせずに行なっているのです。
同じ人であっても、環境との関わり方によってはその人の役割は変わってきます。
それは結果として、人と人との関わり方が同じ人同士であっても変わっていくことになります。
つまりは、自分を含めた人も環境の一部であることになります。
更には、日本語の感覚の中には、環境は常に変化しているものであるというものがあります。
その変化し続けている環境に適応して共生しようとするのが日本語の感覚です。
自分だけでなく相手についての人称表現も、その時会話されている話題や環境によって変化するのです。
母語として日本語を持っている場合には、これらのことをほとんど意識することなしに行なっていますので、自然と環境の理解が進むようになっているのです。
欧米型言語においては、言語で表現されていることがすべてになります。
話題になっていることの原因として環境に触れることはありますが、それは論理上で必要だから触れているのであって、論理のために切り取られた環境となっています。
彼らにとっては人を理解することは、その人の論理や考え方を理解することになります。
日本語の感覚では、人を理解することはその人の環境を理解することであり、そこでどのように適応しようとしているのかという環境との関係性を理解することになります。
したがって、どうしてもアウトプットとして表現される論理や考え方だけで人を評価することが苦手になっているのです。
どちらが良いとか悪いとかいうことではありません。
言語として持っている基本的な感覚と言ったらいいのかもしれません。
母語として持っている言語には、その言語が持ち続けている基本的な感覚があります。
それを知ることは、異なった母語を持つ者の間におけるコミュニケーションにとって大切なことではないでしょうか。
同じ言葉(単語)を使っていたとしても、そこにおける感覚は母語によって異なっていることになります。
同じ日本語というカテゴリーであっても、一人ひとりの母語は微妙に異なった日本語となっています。
それでも、日本語という言語そのものが持っている基本的な感覚は共有されていると思われます。
母語の伝承は、ほとんどが母親からなされるものです。
母親の言語が子どもの母語として受け継がれていくものとなります。
「おかあさん」という人称表現は、日本語の基本になっている感覚かもしれないですね。
【日本語のチカラ】イベントや資料のご案内をしています。
ご希望の方はこちらから登録をお願いします。