外国の人から見ると日本人の花見の感性は異様に映るらしい。
一人ひとりの感覚として美しいと感じる者は当然としても、ほとんどすべての人が桜という花に対して同じ感覚を持って集まることに対してはおかしな感じを持つようです。
ある中国人が「和」を求める日本人の感覚に合っているのではないかと書いているものがありましたが、それも一部をとらえた見方であろうと思います。
日本の国花はサクラとキクになっているようです。
キクは皇室の紋にも使用されているものであり、先日見つかった戦艦武蔵の舳先の紋章でもありました。
サクラは誰もが感じている日本を代表する花です。
サクラは北半球の温帯地域に広く分布しており、決して日本独特のものではありません。
原産地はヒマラヤのあたりではないかと言われているものです。
旧暦の3月3日は今の暦では4月の初めに当たりますが、サクラの節句と呼ばれていた時期があるようです。
サクラが大好きな日本の感覚は、日本語が原点に持ってる感覚である自然に対するものと通ずるものがあります。
今までも見てきたように、日本の歴史文化の原点は厳しく激しく変化する自然との共生にあります。
(参照:日本語の感覚に迫る(2)・・・自然への畏怖)
その自然の中でも一番厳しいものが、屋外での活動が最も制約されて乗り越えることが一番苦しい冬になります。
何とか暖を取りながらじっと耐えることでしか対応できなかった時代もあったのだと思われます。
もし、日本の気候が一年中冬であったならば、全く違う文化が育っていたことでしょう。
その厳しい冬を春の訪れを待ちながらじっと耐えていたのではないでしょうか。
春の兆しを表す言葉が数多く存在していることは、誰もがほんも少しでも冬のゆるみの変化を感じることを心待ちにしていたからではないでしょうか。
そして間違いのない春の訪れの象徴がサクラの開花だったと思われます。
さあ、今年も厳しい冬を乗り越えたぞと言う気持ちはすべての人に共通するものでしょう。
何度か行われた国としての会計年度の変更は、明治19年に4月開始によって落ち着きました。
学校の新学期も4月がスタートです。
新たなスタートを象徴する花がサクラとなっているのです。
冬の間は、活動がやんでいた全てのものが春が近づくにつれて少しずつ動き出します。
その兆しがいたるところに見え始めます。
やがて、一斉にあらゆるものが命の活動を始める、その象徴がサクラなのです。
また、一気に咲いて一気に散る潔さは日本人の理想とする生き方そのものでもあります。
自然の脅威に立ち向かい適応しながら共生していくためには、共同体としての活動が自然発生的に生まれてきます。
生死を共にする環境における「和」のきずなはこれほど強力なものはありません。
厳しい季節を乗り越えて迎えることができた新しい命の活動期を喜ぶのに、黙って見ているわけにはいきません。
お祭り騒ぎは当然のこととなります。
象徴としてのサクラを愛でながら、これからの命の活動に対しての新たな思いを確認し合う場となったのではないでしょうか。
時には、新たなメンバーが加わり世代が入れ替わりながらも、この年の命の活動を共にしていくメンバーが改めて想いを一つにするためには欠かせないものとなっていったと思われます。
もちろんサクラそのものにもそれを思わせる性格があると思われます。
つぼみが膨らむ開花前の健気さ、咲き始める華麗さ、満開の美しさ、そして、いさぎよく散り行く誉れ。
サクラの花は平和、穏やか、やさしい雰囲気があり、また花が一斉に咲き、一遍に散るという特徴は日本人のこころを掻き立てるものとなっています。
冬に耐えるサクラの木から、葉桜が散るまで、歌に詠まれたサクラは数えきれません。
芽が吹き始めてから葉桜となって散るまでを、あれだけの短い期間で人の一生として感じ取ることが感覚としてあったのではないでしょうか。
わずか一週間ばかりの間に、自分の生涯を映してみた者は決して少なくなかったと思われます。
あまりにも鮮やかに咲き、あまりにも見事に散り、その一瞬のために長い季節をじっと耐えているという感覚を持っているのではないでしょうか。
日本語の持っている感覚は、現実に見えているもののためにある環境に思いをはせることです。
現実が見事であればあるほど、その見事さが短ければ短いほど、それを見せつけるための努力に思いをはせるのです。
日本語の感覚は目に見えるアウトプットを讃えたりはしません。
そこに至る地道な行動と努力を見いだせた時に、初めて賞賛に値するものとして無条件にたたえるのです。
同じ結果を出しているならば、より苦しんだ方をたたえるのです。
その苦しみに自分と同質のものを感じることができた時に、その賞賛は心からのものとなるのです。
日本人は天才や天賦のチカラをたたえません。
そこに至る行動と努力の継続に対して敬意を表するのです。
試行錯誤の活動の継続がどれだけ大変なものかよく分かっているからです。
それができれば成果が出るのが分かっているからです。
試行錯誤の活動の継続が誰にでもできることではないことをわかっているのです。
だから、やりきって結果に結び付けたことを讃えるのです。
大きな成果は、より厳しい試行錯誤と継続の努力によってしか生まれてはいけないのです。
サクラはその活動の始まりの象徴であり、結果の象徴でもあるのです。
仲間と集まってサクラを愛でながら、今年の命の活動について語り合う。
こんなことが花見なのでしょうね。
花見の宴にいる人は、誰でも仲間になってしまいませんか。
さあ、今年もあらためて命の活動を始めましょう。