問題はこの賢さの基準をどこに置くのかということになります。
子どもの成長とともに賢さが基準が変わっていくからです。
子どもの成長とともに変わってく賢さの基準に振り回されていると、常に目先の賢さのために子どもに負担を強いることになってしまいます。
子どものためとは言っていても、実際には親の世間体やプライドのためにやっていることだったりしてしまうことがよくあります。
本当の賢さとは、自力で社会を生き抜いていく力のことではないかと思っていますが、そのことに気がつくにはある種の社会経験が必要になります。
企業なり組織に属して、そこから生活のための金銭をもらっている雇用の関係にあるうちは、自力で社会を生きていることにならないからです。
そのまま社会に放り出されても、生き抜いていく力がないからです。
社会と直接かかわることでその社会から生活の糧を稼いでいく環境が、自力で社会を生きていくことになるのではないでしょうか。
大学を卒業して就職をして、子どもができるまでの間に自力で社会を生きていく経験ができ人は限られた人だけです。
それでもひとたび、起業や組織を放り出されると自力で社会を生き抜いていかなければなりません。
どんな企業や組織に属していても、定年時のたくわえでその後の人生を生きていけることはなくなりました。
もともと年金の考えかたの前提には、そのことがあるのですが、年金自体がその役割を果たせなくなってきています。
これからは、ますます自分の退職後の生活の糧は、自分で稼ぎ続けることが必要になっています。
できるだけ早くに社会を自力で生き抜いていける力をつける必要があるます。
自営業の家に生まれた子供が、自力で生きていくための力を早い段階で身につけるのは訳があるのです。
それでも、今の環境は、より高い学歴を持ってより条件の良い企業や組織に就職することでかなりの部分が確保できることになります。
子どもに求める賢さとはより高い学歴を持って社会に出ていくこととなっています。
つまりは、学校の成績を上げることと受験戦争を勝ち抜くことが、賢さの具体的な内容となるのです。
そのために親は、可能な限りあらゆる努力をしようとします。
ほとんどの場合、子どもを持ったり子どもが知識を吸収していく段階では、親は自力で社会で生き抜いていく経験をしていません。
タイミング的には、親の親がようやくその経験をしたことがある程度ではないでしょうか。
本来の子どもが必要とする、社会で生き抜いていくための力は親では教えることができないのです。
親の親である、子どもにとっては祖父母がその知恵や技術を持っているのです。
子どもが祖父母と直接会話ができたり、その生活に直接触れる機会が激減しています。
子どもの持っている言葉から、三世代の共通語が消えかけているのです。
親との間での共通語は、本能的に身についていきますが、祖父母との共通語はその環境がなければ身に付きません。
子どもが、親の親世代と日常的に接触する場面がほとんどなくなってきてしまいました。
三世代の共通語までを意識した言葉を、子どもに伝えて身につけさせることが、賢い子どもを作る最短の道になります。
世代を超えて通用する日本語です。
幼児期に身につけた言葉が、子どもの知的活動のために機能を育てます。
そこに、三世代の共通語を持っておくことが、生きていく力を身につけるには必要になってくるのです。
そのためには、母親の持っている言葉が大事になります。
子どもの言語は、母親の持っている言語が伝承されるからです。
子どもが生まれてから、伝える言語を考えても何もできません。
生まれる前から、子どもに伝えるべき言語を考えておく必要があるのです。
子どもが言語を習得するのは、母親が子供と接しているときだけではありません。
日常生活において聞こえる母親の言葉は、そのすべてが子どもが習得する言語の対象となっていると思った方がいいでしょう。
賢い子に育てようと思ったら、母親の言語を子どもに伝えられるようにしておかなければならないのです。
どんな言葉にしておけばいいのでしょうか。
日本語としての原点の言葉が理想になります。
母親の言葉が、ひらがな言葉になっていることが理想になります。
三世代の共通語であり、あらゆる日本語を理解しするための基本言語であるからです。
そのために役立つ方法は、毎日ではなくてもいいので日記を書くことです。
ひらがなと訓読みの漢字だけで書くのです。
自分の持っている言葉や聞いた言葉をすべてひらがな言葉で訓読み漢字で表すようにするのです。
全てのこ言葉をこのように書こうとすると、うまく表現できない音読み熟語が出てきます。
その言葉は、自分のなかではっきり理解できていないことの表れなのです。
言葉が理解できているということは、自分の持っているひらがな言葉で説明できるということなのです。
ひらがな言葉は日本語の感覚そのものです。
子どもに伝えるべき言語はひらがな言葉なのです。
ひらがな言葉を母語として習得した子どもは、あらゆる日本語についての感覚を持つことになります。
その言語を最適に使った知的活動のための機能が発達していきますので、どんな日本語に対しても理解できる感覚が身について行くことになります。
義務教育になって学習言語としての国語を習得する基本的能力は、母語として持った言語によって発達した知的機能です。
更に、その国語によって様々な教科やルールを知識として身につけていきます。
その理解力は、母語の上に身につけた国語の能力によるものとなります。
あらゆることが母語として持っている日本語によって理解され、知識として身につけていくことになります。
あらゆる知的活動のもとになるのが言語です。
その言語のもとになるのが言語を理解するための母語なのです。
そして、理想の母語はひらがな言葉なのです。
大人にとっては、ひらがな言葉だけでは意味が分かりにくいことが起きてきます。
そのために漢字の訓読みで補います。
ひらがなと漢字の訓読みで表された日本語のことを、現代やまとことばと呼んでいます。
(参照:「現代やまとことば」を使おう)
日本語を母語として持つ人ならだれでも同じ理解ができる、共通言語となっているものです。
そして、すべてのの本後の基本となっている言語なのです。
全ての知識を理解するために必要とされる言語なのです。
その母語が、国語として学ぶ言語のとしての基本形を持っているとしたら、これほど国語を身につけるのに適した条件はないでしょう。
国語の基本的な習得は、小学校の中学年までで終わってしまいます。
その後も国語としての習得もありますが、それ以上に国語を使っての様々な教科や知識の習得の方が多くなってきます。
賢さとしての差が出てくるのがこのころからです。
英才教育で育てられた子供が当たり前の子になっていくのがこのころからです。
日本語の一番基本的な言葉としてのひらがな言葉は、日本語を一番古くから継承してきている言葉でもあります。
その上に、日本語の感覚を一番備えている言葉でもあり、誰にでも理解できる共通語でもあるのです。
子どもの賢さの分岐点が、国語としての理解力にあることは昔からわかっていることです。
その子季語を身につけるための言語として母語があることが、なかなか分からなかったことです。
子どもができる前に、お母さんがひらがな言葉と訓読み漢字の名人になっておくことが、賢い子供を作ることになるのです。