2015年3月2日月曜日

環境で変わる一人称

日本語の持っている独特な感覚は、他の言語が持っている感覚と比べた時に初めて鮮明になってくるものです。

日本語の感覚の中だけで生活していては、なかなか気がつきにくいものとなっています。

それでも、今の時代は好むと好まざるとにかかわらず、日本語の感覚の中だけで生活することは難しくなってきています。


単なる言語の比較をしてみても、音の違いや文法や語彙の違いを比較することくらいしかできません。

言語は、その言語を使う民族が持っている歴史文化が集約され継承されているものということができます。

したがって、言語の感覚を知ろうとするためには、その言語が使われてきた文化歴史的な背景を理解しなければなりません。

言語は、その言語を使うことによって意識することなしに、歴史文化的な感覚によって表現することになってしまうのです。


日本語を母語として持っている人が、英語で話すことによって、意識しなくとも自己主張が明確になったり、論理的であったり、ボディアクションが大きくなってしまうのは当たり前のことなのです。

日本語は、どの国においてもどの国際機関においても公用語とはなっていません。

そのために、日本語の母語話者以外に対して日本語で発信しても、意図したことを理解してもらうことはほとんど出来ません。

特に、アルファベット言語を母語とする人たちからすると、日本語は朝鮮語と並んで習得するのが最も難しい言語となっています。

日本語を習得したくとも、その難易度は他の言語の習得に比べると格段に高くなっているのです。


そのために、日本語を母語として持つ者には、他の言語で表現ができる能力が求められてくることになります。

そこで選ばれる言語は、世界において一番使用する可能性が高い言語であり、今や世界の共通語としての地位を確立したということができる英語となります。


言語化の持つ感覚の違いは、知らないうちに誤解や間違いを生んでいることがあります。

それは、単語や文法などの現実的な言語を使いこなせるようになった時ほど意識しないといけなくなります。

直訳的に置き換えた言葉や言い回しによって、大きな感覚としてのずれが生じる可能性が高くなります。

ましてや、ある程度の使いこなしができるようになると、相手の受け取り方もネイティブ的なものとなっていきますので、感覚的な違いを意識してもらえなくなるのです。

英語が持っている言語の感覚を知ることなしに、中途半端に英語が使いこなせることが一番怖いことになります。


英語においても、イギリス英語とアメリカ英語では感覚としてはかなり大きな違いがあります。

ましてや、母語として持っている英語は一人ひとり異なっていますので、その感覚目で意識することは英語を母語としない者にとっては不可能と言ってよいでしょう。


これらの感覚のズレをできるだけ回避するためには、日本語を母語として持つ私たちが、日本語の感覚についてきちんと理解している必要があります。

言語上や歴史文化の違いから来た感覚としての特徴はたくさんありますが、根本的なところの一点を抑えておけば大きなズレにはならないと思っています。

それは、第一人称の位置付けになります。


具体的な言葉としての使い方でも現れてきますので、一番わかり易い感覚の違いではないかと思います。

英語における第一人称は、「I」だけです。

つまり、絶対的な「I」があって、すべてがそれを基本として考えられているのです。

したがって、何があってもほとんどの場合は「I」から始まり、ことあるたびに「I」が登場してくるのです。


日本語の第一人称は、「わたし」「ぼく」「おれ」「自分」だけではありません。

環境によって第一人称はコロコロと変わります。

自分の子どもの前では「おとうさん」「おかあさん」、他人の子どもの前では「おじさん」「おばさん」、孫の前では「おじいさん」「じいじ」「おばあさん」「ばあば」などとなります。


二人称に対しても、英語においては直接面と向かっているときには「You」しかありません。

日本語のでは、面と向かっていてもビジネス上であれば名前や二人称よりも役職で呼ぶことがほとんどです。

いくつもの団体に属していれば、会合のたびに呼び方が変わったりします。


環境によって自分のことを示す一人称がめまぐるしく変わります。

それは、自分で自分のことを紹介している客観的な場面でも何種類もの一人称が出てくることになります。


この感覚は母語として無意識に染みついていますので、変わることはありません。

環境を最優先して、そこに適応しようとする日本語の感覚の現れです。

どんな環境においても、絶対的な自分がありそれを表現しようとする「I」の感覚とは大きく異なったものなのです。

英語の持っている「I」の感覚の方が、世界の共通的な感覚となっているのです。


つまりは、私たちが自然に考えている感覚は、世界の共通的な感覚からはかなり異なって受取られていることを知っておくことが必要になります。

その典型が、一人称に対する感覚となっているのです。


この感覚の違いによって、人に対する評価も違ってきます。

日本語の感覚では、あらゆる環境の変化に対応できる能力を持った人が評価されますが、欧米型言語の感覚ではより大きな環境に対して影響力を与える絶対的な個を持った人が評価されるのです。

どちらが優れているかということではありません。

大切な場面であるほど、感覚によって判断されることが多くなります。


例え日本語で会表現してるとしても、「私はこう思います。」と一言を頭に付け加えてると英語的な感覚に近くなることが分かっています。

ところが、このように宣言することで知らないうちに余分なプレッシャーがかかっていることも確かなようです。

それだけ言語の感覚が違いことはストレスをため込むことになるのでしょうね。


英語で考えられた論理は、論理としては明確でわかり易いものです。

そのまま取り込んで活動しようとすると、うまくいかないことが多く発生してきます。

そのほとんどの原因が、言語の感覚の違いで説明がつくようです。


日本語の言語の感覚として特徴を知っておいた方がいいですね。

余分なストレスを抱えないためにも。






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