2015年3月29日日曜日

言語感覚の違いによる戸惑い

言語感覚の違いによる戸惑いはいたるところで起こる可能性があります。

幼児期に習得した母語に続く基本的な言語の習得として国語の習得がありますが、その基本的な習得は小学校の中学年である10歳程度でできると言われています。

もちろん、その後にも国語の学習はずっと続いていくのですが、一通り国語で考えることと表現することができるようになるのがこのころと言われています。

母語に続いて国語を習得していくことになりますが、どちらも同じ言語であることが理想的な環境であることは間違いありません。


幼児期に身につけた母語は生涯を通じての基本感覚としての言語となりますので、日常使用の言語が違う言語になった場合でもその感覚は残っていることになります。

幼児期を海外で過ごし両親が英語で話す環境で育った子どもが、義務教育から日本の小学校に通ったとしても日本語の習得にそれほど苦労することはありません。

ほぼ10歳くらいまでには、日本語を母語として持った子どもたちと変わらない様子で日本語を習得できることが認められています。

しかし、問題はここからで、10歳以降では考えることや解釈すること表現することが一気に増えてきます。

ただ単に、言語を身につけるだけならば国語は決して難しいものではありません。

この国語を使って理解しようとしたり考えたりすることを始めると、持っている母語の感覚が自然と出てくるのです。


母語と国語の言語が違うと、日常言語として国語を使っている周りの人との感覚の違いに戸惑うことが起きてきます。

自分だけならばどんな感覚でも構いませんが、国語の目的のひとつが共通認識・共通理解である以上、同じ国語に対して大きく感覚が異なることは生活しいていく上でも苦痛や不便を伴うことになります。

幼児期に慣れ親しんだ母語と違う言語を国語とする場合には、周りがよほどケアをしてあげないと当人は訳が分からない感覚の違いに戸惑い苦しむことになります。


母語と同じ言語を国語として学習する場合にも注意が必要になることがあります。

特に、母語と国語が日本語である場合には、義務教育における学習に注意が必要になります。

特に注意が必要な教科があります。

小学校一年生から独立した授業がある「さんすう」です。


教科の内容としては、人が生きていくために基本的に必要な知識の集まりですのでとても重要なものなのですが、算数そのものの論理が日本語が持っている基本的な感覚と合っていないのです。

その算数の論理は、教科書を中心として国語によって理解していくことになります。


小学校の低学年では国語自体がしっかり身についていないので、国語の習得に合わせた表現で算数の教科書が書かれています。

これは算数に限らず、すべての教科の教科書が国語の学習進度に合わせて書かれていることになります。

本来ならば、理科や社会のように国語の習得がある程度出来上がった中学年頃より学習を始めるのが理想ではないかと思いますが、算数だけは小学校一年生から授業があるのです。

まだ教科書に書いてある文さえ満足に理解できないうちから、日本語の感覚とは異なった感覚を理解しなければいけないのです。

しかもこの年齢では、まだまだ母語としての個人差もとても大きな状況となっている時期でもあります。

理解に差が出ることは当たり前のこととなります。


一通り国語が身について他の教科の教科書に書いてあることが理解できるようになったころには、算数は一番基本的な分野を終わっていることになります。

それから遅れを取り返すのは大変な苦労を強いることとなります。

小学校において一番好き嫌いがはっきりとでるのが算数に対してです。

そして、算数に対して出遅れた子は算数を嫌いになることになります。

いわゆるできない子になってしまうのです。


小学校の教科のなかで日本語の感覚に合っているものは、国語を除くと総合学習(昔でいうところの道徳でしょうか)と書道(ないところもあります)程度ではないでしょうか。

それ以外の教科については、欧米言語の感覚の方が強くなっています。

音楽においても、クラシックが出てくるようになると拒否反応が出てきたことを思い出します。

教科書に書かれている文字は日本語の国語ではありますが、その内容は欧米型言語の感覚の強いものとなっているのです。


だから、テストでいい点数を取るには丸暗記するしかないのです。

持っている言語の感覚とは違う部分が多すぎますので、素直に考えると教科書通りの答えにはならなくなってしまうからです。

そのまま丸暗記することが、よい成績を残すことになるのです。

考えてはいけないのです。


日本語の国語を使いながら、その言語感覚とは異なるものを理解していくのですから。

国語がかなり使いこなせなければ理解するのは難しい活動となります。

結果として、国語の学習が遅い子はすべての教科で後れを取ることとなってしまうのです。


とくに、小学校の中学年から高学年にかけてが国語による理解力が一番必要な時期となります。

この時期に国語による理解力に後れを取ると勉強が嫌いになります。

これは本人の責任ではありません。


教育プログラムを含めたすべての環境の責任なのです。

特に小学校の成績は、母語から国語への移行と国語習得のスムースさにかかっていると言ってもいいと思います。

分かっている先生は、その子の国語の能力をみればほとんどの成績がわかると言います。


算数、理科、社会、はほとんどが日本語の感覚ではない感覚で書かれているのです。

そこに書かれている国語を完全に理解できるようになって初めて、その感覚を理解できるのではないかと思います。

また、それぞれの教科で感覚のズレ方が同じではなく、教科によって微妙に違っていることになっています。


国語の感覚と一番違っているのが算数だと思われます。

このことがよく理解されている学校では、低学年のうちはどの教科であっても全て国語の習得のためにあると位置づけています。

教科ごとの成績を付けない学校もあるようです。

あらゆる教科の基礎として、国語をきちんと身につけることが最優先されます。

異なった感覚を理解するのも、国語で行わなければならないからです。


言語感覚の違いによる戸惑いは、小学生において一番顕著にみられることとなっています。

自分たちがそうではありませんでしたか。

違和感を持ちながらも、ひたすら暗記することによって対応してきたのではなかったでしょうか。


それぞれの教科独特の論理によって考えられるようになるのは、教科によっても異なりますし本人の国語による理解度にもよることになります。

結果として、嫌いな教科のまま敬遠してしまうことにもなりますね。

言語感覚の違いによる戸惑いをしっかり見極めておきたいですね。