この中で「者」は、音から考えても「物」に対応していると考えられることから、物体的なニュアンスとしてのヒトを表しているものだと言えます。
英語におけるeverybodyのbodyにあたるものではないでしょうか。
また、「人」はhumanあるいはmanになると思われます。
「人間」という言葉は、「にんげん」と読めば、日本で生まれた言葉になりますが、漢語では「じんかん」と読み、その意味は間を表すものでした。
日本語の「人間」は、人と間から出来た言葉で、人と人との間柄である関係性が前提となった言葉となっています。
英語には、この様な関係性が考慮された「人間」に相当する言葉がありません。
humanやmanは絶対的な個を表している感覚であり、そこには常にIやyouといった個を意識した主語の存在があると思われます。
日本語の主語が省略されるのは、人と人との関係性においての個であるために、同じ個であっても関係性によって異なるものとなるからです。
僕、わたし、俺、あなた、君、お前、など個を表す言葉は英語よりもはるかに多くあるのに、関係性が明らかな場合にはほとんどが省略されます。
また、省略することなく無理に使用すると、おかしな日本語となってしまうのです。
英語における個は絶対的なものであり、絶対的なものとしての教育を受けてきます。
その歴史文化は言語の感覚の根底に根付いていることになります。
当然、ものの考え方も個(自分)が中心にならざるを得ず、自分は絶対的なものであると同時に、個別のもであるという事になります。
プライベートという考え方も、それに基づくものであり、日本語の感覚では理解しにくいものとなっています。
自然との対峙の仕方も、依存することは許されず、対決するものであり作り変えていくものとして捉えることになります。
このことが、欧米型言語の感覚の中心である、作り出すことや自主ということにつながっていると思われます。
一方、「人間」という関係性は、自然に対しても同じであり、対決するものではなく、むしろ自然の一部としての感覚を持つと思われます。
この感じ方や考え方は、彼らには理解できないこととなっています。
では、日本語の感覚でも彼らの感覚が理解できないものとなっているのでしょうか?
明治維新以降、あらゆる欧米型言語の感覚によるものを日本は取り入れてきました。
太平洋戦争以後はさらにそれに拍車がかかったと言っていいでしょう。
そして、日本人は日本語でその感覚を取り込んできたのです。
特に教育においては論理や考え方が植え込まれていきました。
つまり、現代日本語の感覚では、彼らの感覚を理解することが可能になっているのです。
自然との関係における日本語の感覚からすると、環境との共生も自然な方向と言えるでしょう。
変化し続ける環境に対して、自らを適応させていくことによって共生するという感覚です。
そこにおいては、理解できれば申し分ありませんが、理解できなくともそこにあることや物はまずは受け入れるという感覚ができます。
受け入れなければ、共生できないからです。
新しいものや今までの理解と違うものがあっても、まずはあるがままに受け入れる姿勢があります。
やがて受け入れたものが日本語の感覚に近くなっていくと、融合が行なわれて取り込むことが始まります。
明治期以降で言えば、約150年の間に受け入れてきた欧米型言語の感覚は、現代においては日本語の感覚と見間違うほどに融合しているものもありますが、自然に対する感覚のように根本的に感覚に反しながらも存在しているものもあります。
無理に受け入れることを続けていくとストレスになります。
新しいものや今までの理解と違うものがあっても、まずはあるがままに受け入れる姿勢があります。
やがて受け入れたものが日本語の感覚に近くなっていくと、融合が行なわれて取り込むことが始まります。
明治期以降で言えば、約150年の間に受け入れてきた欧米型言語の感覚は、現代においては日本語の感覚と見間違うほどに融合しているものもありますが、自然に対する感覚のように根本的に感覚に反しながらも存在しているものもあります。
無理に受け入れることを続けていくとストレスになります。
「人間」という独特の関係性を持った感覚を持った言葉は、日本語の感覚を素直に表しているものではないでしょうか。
この感覚を大切にしていきたいですね。
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