2015年2月11日水曜日

抜群の適応力を持つ日本語

日本に初めてキリスト教を伝えたとされているフランシスコ・ザビエルは、日本語のことを「悪魔の言語」と呼んだと言われています。

自分たちヨーロッパの言語と比べた時に、言語だけではなく風俗習慣が全くと言っていいほど異なっていたことも大きな要因ではないでしょうか。

伝聞の歴史に事実は確認できませんので、記録を信じる以外にはないのですが、一説には「悪魔の言葉」と発したのは、ザビエルに同行していた宣教師であったとも言われています。

いずれにしても、神に仕える立場にある者から発せられた悪魔という表現に、その驚きの深さを感じることができるのではないでしょうか。


少しくらいの違いであれば、吸収することは簡単だと思いますし、無視することも可能だと思います。

しかし、全く反対のことがあまりにも多かったことがその難しさをさらに強調することになったと思われます。


そのころの技術で著しい発展をしたものの一つに建築の技術があります。

道具の一つでもあるカンナ(鉋)やノコギリ(鋸)について見てみれば、ヨーロッパにも日本にも同様の機能をする道具はありました。

ヨーロッパでは、押すときに削ったり切ったりするようになっている道具ですが、日本では引くことによって機能するようになっています。

馬の乗り方も、反対側から乗るようになっています。

それぞれが、どちらかを真似して間違えたわけではなく、独自の文化のなかで出来上がってきたものが正反対になっているのです。


ヨーロッパと日本では利き腕の比率が正反対にでもなっていなければ起こりえないようなものになっています。

実際にはどちらでもほとんどが、右利きであることに変わりはありません。

そのために、左利きにとっては最初から不利になるような設定もたくさん存在しています。


陸上競技のトラックがあります。

一周400mのトラックはどんな競技においても必ず左周りになっています。

つまりは、右足のほうが左足よりも多くの距離を走ることになります。

利き足の方がより多くの距離を走る方が有利に決まっています。

左利きの陸上選手は、同じ能力であればトラック競技では右利きの人にはかないません。


マラソン選手の中に面白い選手がいます。

ロード競技のマラソンではいい成績を残すのに、トラック競技の5000mや10000mではなかなか成績を出せない選手がいます。

恐らく左利きだと思われます。


日本語が持っている基本的な感覚は、変化し続ける環境に対して自らを適応させることによって共生していこうとするものです。

この感覚は、単なる言語の持っている特徴ではなく、歴史文化によって作り上げられてきた日本の特徴そのものです。

それが具現化されているものが、日本語という言語の特徴となっているのです。


言語の特徴は、その言語を使う人の行動において目に見えるものとなって表られてきます。

もともと、個の意識がきわめて低く、ほとんどないと言ってもいいのが日本の持っている感覚です。

生きていくための一番の敵は自然環境であり、その相手にはどんなことをしてもかなわないことを知っています。

敵対しては生きていくことができませんので、共生をしていくことしか選択できません。

厳しくもまた変化の激しい自然環境における共生のためには、その変化に合わせて自らを適応させていくことしかできなかったのです。


個の意思や主張を通そうとして自然に敵対すれば、やがては生きていくことができなくなることを理解していたと言えるでしょう。

新しい知識や技術のは、変化に適応するために自らの適応能力を挙げるために開発され習得されていきました。


かたや、ヨーロッパ言語の持っている感覚は、国境を接し侵略の歴史の中で生きていくためには相手を倒さなければ、こちらが殺される環境のなかで育ってきたものです。

最大の敵は自然ではなく、人であり人の組織された国であったのです。

自然はそのために利用すべきものであったのです。

敵の環境に合わせてしまうことは、敗北を意味します。

殺されないまでも、奴隷として使われたりすることによって、人として個としての生活を奪われることになります。


新しい知識や技術は、相手を新緑し屈服させるために発展し習得されていきました。

環境に合わせることは、個としての絶対性を失くすことであり、人としての死を意味していました。

環境に対してより強い影響を与えて優位に立つことを目指してきたわけです。


このような感覚が一緒に存在したときに、どちらの感覚が相手の感覚を理解しやすいのかは一目瞭然ではないでしょうか。

明治維新以降に、日本語はずっと環境を理解して適応してきています。

感覚として完全に異なることに対しても、環境に変化として受け入れてきています。

明治維新以降150年を経て、その適応能力はさらに高くなっているのではないでしょうか。


日本語が世界における共通語になることはあり得ません。

しかし、日本語の感覚は世界のあらゆる言語の感覚を理解することができるものではないでしょうか。

様々な言語に触れることによって、日本語はさらいどんどん大きくなっていくと思われます。

やがては、日本語として融合していくものも出てくるのではないでしょうか。


カタカナ英語などは、もはや英語ではなく日本語となっているものがたくさん存在します。

英語としては通用しないものもたくさん存在します。


他の言語のとの接点においては、日本語が他の言語の感覚を理解することがよさそうです。

そのために、まずは世界の共通語となっている英語の感覚を理解しておくことは必要なのでしょう。

それは言語としての英語を学ぶこととは少し違っています。

英語の持っている感覚を理解しておく必要があると言っています。

英語を学ぶときに、その根底にある感覚を抜きにして学んでも役に立たないということになりそうですね。


英語を理解し学ぶときには、日本語をフルに使うことになります。

他の言語を理解するにも使っているのは日本語だからです。

結局は、一番適応力の高い日本語をきちんと習得していなければならないということですね。




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