2015年2月12日木曜日

自己主張と言語

世界の共通的な感覚として、欧米型言語の感覚が存在していることは、主な機関の公用語が彼らの言語であることを見れば明らかだと思います。

先進文化圏に属していると言われている国の言語のなかで、欧米型言語の感覚と一番かけ離れているのが日本語の感覚だと思われます。

まともに話し合いをすると、彼らの間では当たり前の感覚であっても、日本語の感覚では「?」となることがたくさん出てくるものです。


結果的には、日本語の感覚を彼らの感覚に合わせようとしないと落ち着かないことになります。

もちろん多数のなかで一つだけ極端に違った感覚ということもありますが、それ以前に説得型と調整型の感覚の違いが大きいと思われます。

説得型の彼らの感覚に対して、調整型の日本語の感覚は、絶対的な自らの主張が存在しなくとも困らないからです。


自らの意見は持っていたとしても、他の意見の中により良いと思われるものが存在したときに、自らの意見に対するこだわりはほとんどないと言えるのが日本語の感覚です。

ところが、自分の立場や役割によって、相手の意見の方が良いと思っても簡単に受け入れられない状況が生じてきます。

また、そのような場合においては、ほとんどの場合は自分自らの意見ではなくその意見の代表としての立場であり、一人で決断ができる状況にないことがほとんどです。

したがって、相手の意見方が良いと感じていても、簡単に賛同するわけにはいかなくなっているのです。

外国人との交渉において、彼らが一番嫌がることがこのことであり、決断のできない交渉は彼らにとっては全くの無駄な時間なのです。


日本語の感覚では、個人の意見よりも所属している組織の意見の方が重きを持ちます。

所属していることによって、何らかのメリットが個人にある場合は、更にそれが強いものとなります。

個人の意見と組織の意見が対立したとしても、まったくの個人での活動以外ではどうしても組織の一員としての意識が強くなります。


個人を評価するにしても、属している組織を基準にして評価していることがほとんどである以上、純粋に個人としての評価ができないこともあります。

日本語の感覚では、欧米型言語の感覚の様に、絶対的な個の感覚がありませんので、いかに「個人としては」と前置きをしたとしても、純粋に個の意見としては受け入れることができなくなっているのです。

テレビでいくら「個人として」と言ってみても、作家であったりアナウンサーであったり、必ず何らかの組織やカテゴリーに属している者の意見として受け取られてしまうのです。


ましてや、一般人にとっては、所属している企業や団体の構成員としての価値の方が、純粋な一個人としてよりも受け入れやすいものとなっているのです。

したがって、どんなに「個人として」の前置きをしてみたところで、所属している組織団から全く切り離して受け入れられることはないと言えます。

ましてや、雇用関係や金銭的な授受関係にある場合には、その利益代表としての意見として受け取られてしまうことがほとんどとなります。


個人で活動をして生活をしている人においても、まったく他の人と関係を持たずに生活をしていくことは困難である以上、完全な個人としての主張はなかなかできません。

むしろ、個人としての活動が多い人ほど、周りとの関係に気がついており発言の内容も周りとの関係を踏まえてなされていることの方が多いのではでしょうか。

個人の意見だと思って聞いていた後で、どこかの利益代表としての意見であったことが分かった時のがっかりさや裏切り感は、誰でも持ったことがあるのではないでしょうか。


まったくの個としての主張は、とんでもない不安感と恐怖感すら感じることになります。

これが日本語の感覚の一番わかり易いところではないでしょうか。

絶対的な個ではないのです。

欧米型言語の感覚においても、近い感覚はあると思われますが、彼らは絶対的な個を目指します。

絶対的な個であろうとします。

日本語の感覚では、絶対的な個は孤立感であり不安感につながるのではないでしょうか。


日本語の感覚における自己主張は、何らかの代表意見の主張とならざるを得ないのではないでしょうか。

そのために絶対的な表現もできなければ、意見を同じくする環境が変わってしまえば意見すらも変化するのが当然となるのではないでしょうか。

「私は」と自己主体を強調する意見ほど、何かしらの不安感を抱かせるのが日本語の感覚だと思われます。


主語がなくともお互いが、その意見が発せられる環境を理解し合っていることが、日本語の感覚の原点ではないでしょうか。

会話の中に主語がたくさん出てくる言語、特に主体と客体(IとYou)がたくさん出てくる言語ほど、個に対する意識が強い背景があるのではないかと思われます。


日本語の感覚は自己主張には向かないものだと思われます。

したがって、日本語は説得には向かない言語だと思われます。

相手の意見を理解しながら、より良いものを模索してく協調に向いている言語だと思われます。

そのための使い方をした時に、日本語の感覚が一番生かされるのではないでしょうか。


日本語でなされた自己主張で、こころに残っているものがほとんどありません。

企業のトップであっても、その企業の活動に自ら決断を下せるのはオーナー代表だけです。

だから、オーナー代表の具体的な自己主張はすんなりと受け入れられるのです。


ほとんどの自己主張は、代表意見の主張です。

総論としての意見の母体があり、その一部を自己主張として行っているのに過ぎません。

個人として決断を下しそのように動かせることではないことを、みんなが感覚としてわかっているのです。

むしろ個人としての活動の多い人の自己主張の方が、より多くの人から受け入れられるのは当然のことなのです。


同じ自己主張をしても、言語によって受け入れられる感覚は、かなり異なったものとなっています。

欧米型言語における自己主張は、かなりの部分で個人の行動責任を伴っています。

組織においても、個人としての役割と権限が明確になっており、自己主張ができる範囲がはっきりとしています。

また、その責任は組織であっても個人における部分が非常に大きくなっています。


同じ内容の自己主張を、いくつかの言語で表現できるととても面白いことになるのではないでしょうか。

それこそ、それぞれの言語における感覚が理解できていないとできないことだと思いますが。




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