2015年1月21日水曜日

日本語のききかた(3)

「ききかた」と言っても、きく目的によって変わってくるのではないのかと思われる人もいるのではないでしょうか。

実はこの目的を持ったききかたこそが、欧米型言語の本来的な感覚なのです。

その根本には、論理性を重視したクリティカルシンキングの考え方が根付いているのです。

義務教育において徹底的に鍛え上げられてくるのが、クリティカルシンキングの考え方であり、そのための論理性と表現力なのです。

この表現力は、相手に理解してもらうことよりも、説得することに重点が置かれた表現力となっています。


論理を理解させることによって、説得をする技術を身につけてきます。

この力が社会で生きるための基礎力であると位置づけされているのです。

社会そのものが論理で動いているので、あらゆることで論理性が重視されるのです。


したがって、欧米型言語においてはどうしても「論理性における欠陥がないか」といったききかたが中心になってしまうのです。

日本語的な感覚からすると、挙げ足を取るための根拠探し的な聴き方になるのです。

聞いている方が、なんらかの意図を持っていて、その意図に沿ったききかたをしていることになります。


日本語では、小さな頃から「人の話を最後まできちんとききなさい。」と教育されます。

これは、聞き手としての意図を持たないで、理解することに専念しないという教えに他なりません。

小さな頃より、このような教えが染みついていること自体が、日本語の感覚においてはきちんと話し手の内容を理解することが難しいことを表していることになります。

つまり、聞き手の意図を持たないで、きちんと最後まで相手の言っていることをききとらないと、理解することが難しいということの裏返しなのです。


さらにその上に、日本語の感覚として、以心伝心や一を聞いて十を知るなどの言語となっているもの以外のきき方までが求められています。

つまりは、日本語の感覚において「きく」ことは、言葉や論理を聞くことではなく、相手のいる環境やその環境とのかかわり方などを理解しなければならないことを表しているのです。

そして、相手の触れている内容における環境と相手との関係を理解して初めて、言語外の感覚や気持ちを理解することが可能となるのです。

論理だけで動かないのが日本語の感覚です。

ですから、以心伝心や一を聞いて十を知る関係ができることによって、初めて言語以外の共通領域の環境に身を置くことができるのです。


欧米型言語感覚における「きくこと」は、話し手との違いを見つけることです。

日本語感覚における「きくこと」は、話し手と同じ環境に自分を置くことによって、感覚を同じにすることなのです。

感覚を同じにしたからと言って、意見や考え方までが同じになるわけではありません。

話し手が感じていることを、自分の感覚として感じ取れていることが大切になるのです。


そして、日本語の感覚では、たとえ話し手側の方が言葉が足りなくとも、表現が適切でなくとも、きき手がどのような感覚を持って聞いているかが感じ取れるようになっているのです。

明確な自己主張は、関係を持っている環境を極めて限定的なものとしてしまいます。

だから、日本語の感覚では初めから自己主張することが嫌われるのです。

同じ人であっても、自分が身を置く環境が変わることによって、捉え方も変わってくるのです。


その環境までもを、そしてその環境と話し手の関係までもを理解することが日本語の感覚における「きくこと」になるのではないでしょうか。

相手に対する本当の理解は、言語以外のところにあると感じている人は決して少なくないと思われます。

また、経験的にそのような場面にも何度も出くわしているのではないでしょうか。


そんな理解をするためには、五つのききかたである、聞く、聴く、利く、効く、訊くを上手に使うことが必要になりそうです。

心配は要らないと思います。

日本語を母語として持っている限りは、日常生活における活動のなかで、自然にやっていることのはずです。

意識してやっていないだけなのです。


必要なときは、ちゃんとやっているのです。

でも、意識してやることによって、きちんと理解できているかを知ることができるのです。


学生の間は、生活している環境は、みんなほとんど同じようなものです。

黙っていても共有できている環境の領域が沢山あるのです。

それでも、学年や学歴が上がるほどに、一人ひとり異なった環境が増えていきます。


同じような生活環境であれば、黙っていてもその環境とのかかわりや、その環境における考え方などが自然と分かってきます。

敢えて、説明しなくともお互いの共通領域は、かなりの大きさになっているのです。

ところが社会に出て活動をするようになると、一人ひとりの環境における共通領域はかなり小さいものとなってきます。

自分の環境領域から、勝手に推測すると理解できないことがたくさん出てきます。


しっかりと、相手のことを「きくこと」からしか、共通領域は確認することができません。

日本語の感覚は、感情の感覚です。

相手の気持ちを理解することが、論理を理解すること以上に大切になります。


意識せずに自然にやっている日本語独特の「ききかた」が、少しでも意識できたら何かが変わってきそうですね。

何が変わってくるのか楽しみたいと思います。