環境の変化をいち早く正確に掴むことと、変化し続ける環境にどのようにでも適応できる能力を身につけるために、自己を磨いていくことを自己研鑽としておこないます。
相手を理解することにおいても、自分の置かれている、あるいは自分で選択した環境と同じ環境にいる場合は、あっという間に理解することができます。
意見や考え方が合うということではありません。
相手がそのような意見や考え方を持つための環境が理解できるということです。
義務教育の頃は、学校だけではなく、放課後や休日までもがほとんど同じ友達と過ごすことになります。
放っておいても、お互いの中で共有できている環境がとんでもなく大きくなっています。
しかも、生活指導と言う名のもとに、その環境とのかかわり方もかなり限定的に指定されたものとなっています。
比較的簡単に相手を理解できる環境となっているのです。
学年が上がったり社会人になったりしても、合宿や寮生活をしている者同士の方が理解しやすいのは、共有している環境が多いからです。
寝食まで共にする、同じ釜の飯を食った環境は、大きな共有領域を持っていることになります。
さらに、軍隊のように、生命の危険にさらされるような環境を共有していることは、相手を理解する上での大きな力になります。
意見や考え方の違いのもとになっているものが理解できることになりますので、主張や論理において自分と異なるからと言って、むやみに否定したりはしないのです。
日本語の感覚では、相手を理解しようとするときに、まずは言葉を聞きます。
わからない言葉があるとそこで引っかかります。
わからない言葉がどんな環境で使わ出ているものかが理解できないと不安になるからです。
不安が生じると途端に理解することの足を引っ張ります。
言葉が全部わかったとすると、次に論理・理屈の理解になります。
理解できない論理は、どんな環境で使われている論理なのかがわからないと不安になります。
同じようにこの不安が理解の妨げになります。
欧米型言語の感覚では、ここで不安になりません。
自分の論理と違うということでの 、説得合戦になります。
この説得合戦の状態が、彼らにとっては理解しているということになります。
思い切り否定しても、論理に対して行われていることですので、人を責めているとは感じません。
日本語感覚では、理解するということは、環境と相手の関係性までもが対象となっていますので、その上で論理を理解していることになります。
したがって、論理の否定は環境との関係性の否定ともなってしまい、ひいては相手そのものに対しての否定として映ってしまうのです。
つまりは、欧米型言語においては、言葉を理解することによって相手の論理を理解し、その論理の違いによって相手を理解していることになります。
論理の違いが自他の違いとなっていることになります。
論理の違いは存在するのが当たり前のことであり、人に対しての理解よりも論理に対しての理解の方が重要となっているのです。
日本語の感覚では、その人が存在している環境とその人との関係で理解していることになります。
論理の違いは同じように当たり前のこととして存在してますが、論理だけを取り上げて扱うことがとても苦手になっています。
日本語の感覚で相手を理解することは、存在する環境とその環境との関係性において理解することになりますので、人としての存在として理解することになります。
論理はその中のほんの一部として存在しますが、切り離せるものではありません。
その論理に至る環境を理解することが重視されていますので、論理だけを切り分けて扱うことが苦手にできています。
相手が理解できれば、その論理になる環境すら理解できますので、絶対的な否定にはなり得ません。
日本語の感覚では、相手と同化することが頻繁に起こるのです。
感情移入しやすいことや洗脳にかかりやすいことも、このようなことに一因があるかもしれません。
同じ釜の飯を食った環境が多ければ多いほどに、違いすらも理解できてしまうことになります。
学校教育を通じて、欧米型言語の感覚による論理性や考え方を詰め込まれてきますが、それらがすべて日本語という言語を通して行われています。
日本語が本質的に持っている感覚とは合わないものもたくさんあるのです。
世界の標準は、旋文化を築いてきた欧米型言語に感覚によって成り立っています。
日本語の感覚は、その中では極めて特殊なものと言わざるを得ません。
でも、そこが日本らしさではないでしょうか。
しっかりと日本であることを理解して、世界と向き合いたいですね。