それは、言葉が持っている抽象性や文章にした時の不明瞭さなどから来るものもありますし、意思の表現や自己主張の弱さから来るものでもあると考えられます。
しかし、日本語環境の中だけで生活している分には何の問題もないことも確かです。
日本語の持つ特徴としての曖昧さは、欧米型言語の感覚と比較したときに、彼ら感覚にとって不明瞭に思われることにすぎません。
言語の持つ特徴は、その言語を継承してきた精神文化的な背景が反映されているものです。
どの言語においても、その言語だけの環境にいる場合においては、何の問題もありませんし不都合もありません。
異なる言語文化同士がぶつかった時に初めて、自分の持っている母語の感覚と異なる感覚に違和感を感じることになります。
自分の持っている母語が世界に共通する言語であれば、他の言語との感覚の違いなど無視しても問題はないでしょう。
共通言語以外の言語を持っている方が、共通言語に合わせてくればいいだけのことになるからです。
現在の言語のなかで、世界の共通言語としての立場を持っているものは英語です。
英語にも実際に使われている英語にはたくさんの種類がありますが、英語であればその感覚としてのものはかなりの範囲で共通しているものがあります。
好むと好まざるとにかかわらず、インターネットなどを通じて他の言語と触れる機会が増えてきています。
コンピュータの世界での基本言語はこれも英語です。
したがって、英語の持っている言語感覚が、世界の共通感覚として存在していることになります。
英語を母語として持っている人たちにとっては、母語=世界共通語ですので、他の言語の感覚を全く気にする必要がありません。
意識する必要もないのです。
結果として、他の言語を母語とする人たちの言語感覚については理解する必要もないことになります。
趣味として他の言語を学ぶことはあったとしても、実用語として他の言語を使う必要がないのです。
自分の母語が世界の共通語であることのメリットは、計り知れないものがあります。
日本語は、日本だけでしか通用しない言語です。
他の言語による侵略を受けたこともなく、純粋に磨き上げられてきた、世界に類を見ない独特な言語です。
世界に存在する言語の中でも、きわめて特殊な言語であると言えます。
例えて言うのであれば、隔離された甕のなかで1500年以上をかけて熟成されてきた完熟言語と言えるかもしれません。
明治維新以降に至っては、世界の先端文明を取り込みながら、ある意味ではいいとこどりをしながらさらなる成長を続けている言語でもあります。
しかし、明治維新以降の文化の取り込みにおいては、そこまでに熟成されてきた日本語がベースになっており、熟成された日本語によって他の言語文化を理解していったことになります。
その中で言葉としての新しいものはたくさん生まれてきましたが、言語そのものが持っている根本的なものは変わってはいないと思われます。
明治維新以降は、欧米文化に対応するために新しい言葉や用法をたくさん生み出しました。
それこそ広辞苑一冊(約24万語)では済まないくらいの言葉を生み出しました。
その中で、日本語が本来持っていた感覚と融合していったものもあり、現代に継承されてきているものと思われます。
言語文化の本質が自然とのかかわりに方にあるであろうということについては、何回か触れてきました。
(参照:自然とのかかわりで見た言語文化、日本語と自然との関係 など)
言語そのものが持っている感覚も、そのかかわりに大きく影響されていることも間違いがないと思われます。
日本語の持っている根本的な感覚が、変化し続ける環境との共生にあることを述べてきました。
そのために、自分を環境に適応させていくことが日本語の感覚の背景にあります。
人との関係においても同じことが言えます。
人も自分も環境があって、その中に存在しているという感覚です。
変化して続けている環境の中で、それに適応しようとしている人もまた変化し続けています。
固定的な絶対的なものは一切存在しません。
一旦固定してしまったものは、その瞬間から変化していくことは、日本語の感覚にとっては自然なことなのです。
日本語の感覚では、二者択一は不自然なのです。
絶対的な論理はないのです。
環境との関係において初めて理解できるものとなっているのです。
感覚として持っているこれらのことを表現するために、とんでもなく豊かな表現力と微妙な感覚を表す言葉がたくさん存在しているのではないでしょうか。
人が至上であり、個が絶対的存在であり、環境に対して影響を与えて変化させていくことをその感覚の中心とする欧米型言語との大きな違いがここにあると思われます。
日本語の感覚が持っている、欧米型言語から見た曖昧さは、きわめて自然なものと言えるのです。
人が作り出した論理で分類や区別のできるものは限られていることを、日本語の感覚は持っているのです。
その日本語の感覚は、具体的な言語以外の感覚をも含んだものとなっています。
日本語の感覚における理解とは、環境との関係性を理解することになります。
共通理解は、共通環境領域の理解ということができます。
この環境ことを「ことだま」と呼んだりしているのではないでしょうか。
そこにおいては、相手その存在そのものも環境なのです。
Yes or Noは、日本語の感覚ではないのです。
YesとNoの間にどこかが日本語の感覚なのです、しかもその位置は常に変化しているのです。
(参照:Yes と No の間にあるもの、Yes or No が合わない日本語)
この感覚を、欧米言語的な感覚から見ると曖昧であると見えるのではないでしょうか。
明治維新以降、欧米型言語の感覚についても日本語は取り込んできました。
そのために日本語の表現の豊かさは、とんでもないものとなっています。
日本語の表現の中で、欧米型言語の感覚も表現できるようになっているのです。
しかし表現は出来たとしても、本来の日本語が持っている感覚との違いは、不自然さや違和感として存在しているのです。
母語としての日本語を持っている者にとっては、欧米型言語の感覚だけでの生活は、ストレスをため込むことになるのです。
大企業のほとんどは、欧米型言語の感覚のなかで発展をしてきました。
そこで働いていることは常に欧米型言語の感覚のなかで生活をしていることになります。
プライベートの時間や仕事外の時間をうまく使って、日本語の感覚に触れていないとストレスをため込むことになります。
この感覚の中だけで生きている彼らには何のストレスもありません。
企業の中でも、日本語の感覚を少しずつ取り入れるようになっています。
反対に、さらに欧米型言語の感覚を取り込もうとしている企業もあります。
日本語というとてつもなく大きな言語は、表現の上では欧米型言語の感覚をも表現できるものとなってきています。
しかし、言語が本質的に持っている感覚は矛盾するものです。
日本語の感覚に素直に従っていると、どこかで不自然さや違和感を感じることがあるのではないでしょうか。
今や、曖昧さは自然科学分野においても、その基盤をなす大きなテーマとなっています。
批判的に見るのではなく、もっともっと日本語の曖昧さに浸ることがあってもいいと思いますよ。