私が英語を習い始めた中学生の頃は、新しく出てきた英単語をノートいっぱいになるまで何十回も書いて覚えていました。
すでにカセットテープは一般化していましたので、私立のモデル校などにはLL教室なるものがあったように記憶しています。
この頃の英語の授業は、先生の後について教科書を読むリーディングと穴埋め問題と構文暗記に終始したグラマーでした。
話すことよりも、書いて暗記することの方がはるかに多く、教科書を丸暗記していればほとんどのテストでは満点近くを取ることができました。
つまりは、英語本来の姿である口頭言語としてのコミュニケーションツールとしては扱っておらず、他の教科と同様に、成績評価をするための記憶力テストを繰り返していたことになります。
日本における外国語の歴史を見てみると、1639年に鎖国が実施されて以降は、オランダと中国(清)のみが限定された幕府独占の貿易相手でした。
国際語と言えば必然的にオランダ語となっていたわけです。
幕府にとって英語を意識せざるを得なかった事件が起きます。
1808年のフェートン号事件です。
これは、オランダ船を偽装して、イギリスの軍艦フェートン号が長崎に入港したものです。
この時期には、ヨーロッパにおけるオランダの力が低下し、この事件をきっかけにしてイギリスの台頭を知ることになるのです。
これは幕府にとっては都合の悪いことになります。
鎖国とは、幕府が外国の情報を一元的に管理して外交政策を決めていくことですが、その情報源としてのオランダの国力が低下しては必要な情報が手に入らなくなるからです。
長崎にいたオランダ通詞(オランダ語でヨーロッパ文明を学んでいた学者たち)に英語とロシア語の学習が命じられ、結局は全員に英語の学習が命じられることになりました。
1858年には長崎に英語伝習所を開設しています。
また、1860年には蕃書調所(幕府の洋学研究所)において英学が正科となります。
1862年には洋学調所、1863年には開成所と名称を変えていき、幕府崩壊まで洋学の研究教育の中心となっていきました。
明治期に英語の必要性を強く感じていた人物の一人が、福沢諭吉です。
1589年に横浜見物に出かけた福沢は、今までの学習に落胆を感じるとともに、英語の必要性を強く感じたと言われています。
いわゆる「英語発心」として「福翁自伝」にも書かれています。
それまでに外国の存在すら知らなかったような人にまで、圧倒的なパワーで迫ってくる英語の力は恐ろしさまでも感じることであったと思われます。
明治期には、極論まで登場し英語公論化のために動いた人もたくさんいました。
明治新政府の中には、初代文部大臣であった森有礼らを中心とした日本語廃止、英語国語化論を真剣に検討した歴史が残っています。
どうやら、その結果は文部省学監として招聘された外国人によって、「国語を保存するのは国民性を保存することである」との見解のもとで拒否されたとあります。
英語を日本の国語にしようとする動きが、外国人によって否定されたのは面白い話だと思います。
それだけ、文化的な見識を持った外国人がサポートをしてくれていたと言うことなのでしょう。
感謝すべきことですね。
現在の、世界の公用語としての英語のポジションを見るにつけ、個人としての自由選択は別にしても、国としての洋学の基本として英語に目をつけ、以降一貫して脇目も振らずに英語を外国学習の軸に据えてきたことは、ありがたいことであると思えます。
アメリカという新しい力を持った国における歴史を見てみれば、明治維新において日本語が取り組んだ英語学習とたいした時期のずれはありません。
日本人のノーベル賞受賞者が増えてきています。
ノーベル賞でも世界的な評価が安定しているのが、自然科学の三分野(物理、化学、医学生理学)です。
特に2000年以降を見てみると、この三分野における日本人の受賞者数が目を引きます。
ほとんど、毎年のように受賞している感じになっています。
もちろん受賞者数の一位はぶっちぎりでアメリカですが、そこには原国籍がアメリカでない人がたくさん含まれていることはご存じのとおりです。
第二位が日本です、その数は全ヨーロッパの合計よりも多い数になっています。
受賞者は必ず、受賞スピーチを行いますし、海外のメディアにも取り上げられますので、英語で話す場面が沢山映像に流れます。
ひとりずつ個性のある英語ですが、あの英語を見たり聞いたりしてどの様に感じられるでしょうか。
特に、東京オリンピック招致プレゼンの時に行われた、スピーチと比較してもらいたいと思います。
英語としての質から言ったら、オリンピック招致のプレゼンの方がはるかに英語らしい英語です。
あの、日本人ノーベル賞受賞たちが行っているのがジャパニーズ・イングリッシュです。
英語という言語の点から見たら、感覚的にも質的にも決して高いものとは言えません。
しかし、あれが最優秀な日本人の知的活動による英語なのです。
表現するための英語としては、十分なものなのです。
日本語の発音による、日本語を母語とする人間が表現する英語なのです。
英語は、特にその発音においては日本語とはとても距離の離れたところにある言語です。
何もないところから伝えることや理解してもらうことを主眼に置くと、言葉として伝わるかどうかが主眼になってしまいます。
そうなると一つひとつの言葉の発音が、アクセントが、音のつながりが大切になってしまいます。
そんなことを無視して、伝えたいことをそれらしい日本語の音で発信してしまうことが、ジャパニーズ・イングリッシュです。
聞いて理解するための言語ではありません。
知的活動としての表現活動としての道具としてのジャパニーズ・イングリッシュなのです。
大切なのは中身なのです。
だから、彼らは中身を聞こうとしてくれるのです。
英語は、話して話して説明する言語です。
同じことを何度言ってもいいですし、ストレートにしか表現できないものです。
同じ日本人が、英語で表現するとかえってわかり易くて積極的に聞こえるものなのです。
言語の持っている特性がそうなっているのです。
英語で表現する機会が必要でなければ、使わなくてもいいのです。
年に数回の海外旅行で、英語でコミュニケーションしたければそれ用の英語を使えばいいのです。
日本人の最高の英知が、見本を見せてくれています。
あれは、ジャパニーズ・イングリッシュという、世界の公用語にも対応した新しい言語なのです。
新しい日本語なのです。
ひらがな、カタカナ、漢字、アルファベットを持っている日本語が、それらを使って今更一つくらい新しい言語が増えたところで楽に対応できるのではないでしょうか。
英語そのものは、あらゆる面において日本語の対極にある言語です。
恐らくその感覚は、日本語を母語とする日本人にはいつまでたってもわからないでしょう。
でも、ジャパニーズイングリッシュは、英語との共通領域が多い一種の共通語として存在できると思われます。
英語と日本語の共通語としての、ジャパニーズ・イングリッシュを作ってしまえばいいわけです。
当面は、個人レベルでいいのではないでしょうか。
もちろん英語で表現する機会のない人には不要のことです。
その見本として、ノーベル賞受賞者たちの英語は大いに参考になるものです。
言い換えてしまえば、日本語による英語もどきの表現と言えるかもしれませんね。
それで十分ではないでしょうか。
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